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芋銭との偶然の出会い

 芋銭と私との出会いは全くの本当に全くの偶然であった。もともとは美術などとは全く縁の無い茨城県の行政職として採用され、事務職員として日々を過ごしていた。こういった職種には転勤がつきもので、或年の3月、転勤せよとの話がありその準備を進めていたが、突然転勤先が変更になったと告げられた。その転勤先というのが、現在の茨城県近代美術館の前身である「茨城県立美術博物館」である。ここは県立とは名ばかりの、総数4名(学芸員は1名)の極めて小さな機関だった。展示室にしても「茨城県立県民文化センター」小ホール側の小さな一室のみを占有するだけだった。

​ 茨城県は「小川芋銭」の作品総数128点を1億数千万円で購入、それが「茨城県立美術博物館」へ管理換えになったのと、私の着任は全く同じ時期だった。芋銭と私の関わりはここに端を発する。当初予定されていた転勤先なら、芋銭に関わることなど生涯なかったわけだ。

 事務職員だからソロバンを弾いたりなどしていればそれで済むわけだが、何分にも極小所帯のため、学芸事務のまねごと程度の仕事や手伝いもせざるを得なかった。新収蔵となった大量の小川芋銭の作品は、ほとんど無整理の状態であり、制作年代考証、画賛解読などは全く覚束ない有様であった。そういうものに日々接する内にすっかり芋銭に魅了されてしまった。具体的にどこがと問われれば、漠然としていて説明のしようがない。

​ それまでは「芋銭」に対して知識のかけらさえ有していなかったし、芋銭の存在すら全く知らなかった。しかし、芋銭に頻繁に接するうち、その魅力にどっぷりと浸かってしまった。芋銭関連の文献も手当たり次第に購入(その数は約1千冊、稀覯本も多数購入)し、暇があれば読み耽った。そうするうちに、文献の記述の欠点や矛盾にも僅かながら気づくようになってきた。

 「芋銭の絵画を鑑賞する際、文字などは絵の一部として見れば良い。つまり、読めなくともかまわない」というのが、当時の担当者らの見解であった。素人ながらこれには賛同しかねるものがあり、芋銭を知るにはまず芋銭の文字が読めなければならないと考え、仕事が終わると、水戸から結城(結城市在住の荒井萬平氏に学ぶ。文字を読むことにかけては、荒井氏の右に出る人は誰もいない。惜しくも物故された。)まで通い続けた。しかし、3ヶ月経っても6ヶ月経っても満足に読めない。少しばかり読めるようになったのは、1年ぐらい後のことだったろうか。そうすると、色々なものが見えて来るようになった。

 並行して、学芸員になり芋銭研究に没頭したいという欲も出てきた。学芸員になるには4年制の大学を出ていること、及び、博物館学芸員の資格を有することが前提となる。私は音楽の道に進みたかったが、諸般の事情でそれが叶わず、高校卒業後直ぐに就職した。それで働きながら大学を卒業、併せて博物館学芸員(京都で実習)の資格も取得した。これで、一応条件はクリアしたわけだが、世の中はそうそう甘くはない。資格取得した直後、今度は埋蔵文化財発掘調査機関へ転勤することになった。ここの仕事はハードで、芋銭の本など読んでいる時間など全くない。転勤希望を申し出、2年後、茨城県立図書館勤務になった。少しは前より環境は良くなったものの、依然として学芸員への道は開かれない。

 ある日上司から「学芸員への道はどのように願っても120%、いやそれ以上なれる可能性はない」と告げられ、終に学芸員への道を断念することにした。しかし、家に帰れば山ほど芋銭文献があり、これを見ると思いは逆行するばかりで、どうしても欲望を断ち切ることができない。それで、芋銭文献の一切を古書店に処分することを決断し実行に移した(今考えると、本当にバカなことをしたものだ)。寂しくもあったが、目の前から芋銭文献が消えたら、後は未練を断ち切る努力のみである。

 ところがである。文献を一切処分した約2ヶ月後、学芸員に1名欠員がでたから試験を受けてみないかとの話が舞い込んだ。勿論、それに応募して、やっと目的が達成された。この間、十数年の歳月が流れた。

 思うに、芋銭との出会いもそうだったが、世の中の不可思議さや皮肉さを何と喩えたらよいだろうか。

 学芸員として働き始めた早々『小川芋銭文献目録』を刊行、続いて、全国美術館連絡協議会が実施する学芸員研究助成に応募、その紀要に芋銭に関する小論が掲載(通常原稿用紙50枚の制限があるが、私の場合は無制限で、書きたいだけ書けと…)、更に、東京国立近代美術館主催の「小川芋銭展」のお手伝い、茨城県立歴史館に移ってからは、芋銭初の「小川芋銭河童百図展」を企画開催、併せて『小川芋銭河童百図展図録』の刊行(編集執筆:百図全図に初めて解説をす)。

 その後、牛久市に「小川芋銭研究センター」を立ち上げ運営を任されてからは、小川芋銭展(計4回)や小川芋銭検定(計8回)などを企画実施、また、約30年余を費やして収集した資料を基に『小川芋銭全作品集』挿絵編・本絵編を刊行などなど、思い出は尽きない。

 だが、眩い光を放ち始めた小川芋銭研究顕彰に、早くも冬の時代が到来した。体制が代わるや、当該センターは存在不要となり、僅か7年間でその歴史を閉じた。

 28・6・7の牛久市議会の議事録中に、当該センターに触れた答弁がある。当該センターが閉鎖に追い込まれたのは、市側に都合の良い答弁に隠れた裏事情があった。その事情というのは、市職員の職務放棄(小川芋銭検定講座に職員は行ってはならないという命が下された)に端を発する。要するに、芋銭を捨てるという愚挙だ。これに並行して、当該センターが進めていた『小川芋銭印譜集」刊行も、幻に終わった。偏屈者の私は追われて当然だろう。しかし、全国にその名が浸透してきた「小川芋銭研究センター」まで潰すことはないだろう。狭い世界であるから、今でも私宛に、なぜ当該センターが廃止になったのかとの問い合わせがあり、返答に窮する。

 研究機関がないのだから当然といえば当然だが、70有余年の眠りから醒めた牛久の宝とも言える小川家の芋銭旧蔵資料は、再び長い眠りについた。おそらく、牛久市においてこれらの資料が目覚めることは、20〜30年先を考えても、望めないだろう。

 牛久沼の畔に「芋銭先生記念碑・河童の碑(通称)」が建立された時、陣頭指揮をとった福島の池田龍一は、「牛久の誰が手伝ってくれたか、いや、むしろ邪魔したくらいだ」と嘆いている。建立は、昭和27年のことだが、それから66年を経た現在に至っても、牛久市における芋銭に関する意識は、ほとんど変わっていないように思う。

 それらを明かすように・・・

 生誕150年・没後80年という記念すべき今年、牛久市にて何らかの顕彰事業が展開されただろうか。私は知らない。

 だが、行政とは全く無縁のところで、記念事業ともいうべきものが展開された。

 二つの文献刊行:芋銭旧蔵資料を駆使した『小川芋銭西山泊雲来往書簡集』西山酒造場発行

         地元の芋銭研究家による『芋銭の言葉』香取勝義編著

 一つの展覧会開催:隣接する取手市において「取手と芋銭展」の開催

 これらがなかったら、どのように寂しい年になったであろうか。

 兎にも角にも、歴史が実証するように、芋銭研究顕彰とは、いつもこのようなことの繰り返しでもある。

 ただ、私は芋銭から学んだものがある。俗欲を持つということの虚しさを………。それで充分かも知れない。

                                            北畠 健