懸賞絵画第一等当選画  他

 芋銭年表や芋銭文献を見ると、今では(昭和60年頃からか)当たり前のように、芋銭作「新年の意」が懸賞絵画第一等当選として、『読売新聞』明治36年1月1日の紙面に掲載されたと、芋銭文献に記されている。

 美術雑誌『美術』14-2 昭和14年2月刊は、「小川芋銭号」と題する芋銭追悼特集号である。芋銭に関係した諸氏17名が、それぞれ芋銭への想いを綴っている(既発表の再録も多いが)。その中の一人・小川千甕が「芋錢先生」と題して、次のような非常に興味深い文章を寄せている。

 明治三十年代か讀売新聞が、新年の紙上の爲に、長編短編小説、詩歌句、挿畫等を懸賞募集したことがある。私の兄は、京都より應募して、其の長編小説の一等を羸ち得た。其故にこどもの私も、その讀売新聞を見た。挿畫の一等は、實に芋錢先生であつた。新春の象徴のような女神がをり、其の下に種々の人物がをつたと記憶する。實に特異な畫風(先生の生涯を通じたあの畫風である)に、幼稚な私も思はず三嘆した。……さるにても、この異色ある先生の繪を、採らざるを得なかつたでもあろうが、其の選者たる梶田半古も、亦、えらいと、私のこども心にも思うた。

 この文章を読んだ当時、当ホームページのABOUT MEに記したように、私は「茨城県立美術博物館」で事務職員をしながら芋銭を独自に調べていた。しかし、過去の芋銭関連文献のどれを読み込んでも、芋銭のこの快挙を記したものはなかった。そこで、小川千甕の記事を頼りに、明治30年代の読売新聞を徹底的に調べ、その事実を確認した。以下にその作品を掲げる。

 私はこの調査の成果を、茨城県の地方新聞・常陽新聞(現在廃刊)に、「新資料による芋銭考」と題し、昭和57年5月16日から12回に分け連載(ルビは編集氏が担当、間違いも多数あり)した。その第1回目に、この懸賞絵画第一等当選作品について記した。つまり、これが初出文献となる。芋銭というと「俗中の仙人」とか称され、俗世間から超然としていたわけではない。画家としての基盤を確固たるものにするため、このような努力もしていた。

 更に、連載中には、芋銭と印人(篆刻家)に関しても、芋銭研究上で初めて触れた。芋銭の印章等に関しては、これまた頼るべき文献もないので、全く手探りで調査を開始した。例えば、山越呂城・木村芳雨・服部耕(畊)石・長曽我部木人(ご存命の時、直接お会いした)等々に関しては、調査の糸口さえ掴めない有様であった。印文の読みもまた二、三を除き参考文献は全くない。「牝牡驪黄外」や「出入無時莫知其郷」などは、解読するのに半年以上の歳月を費やした。後に、『全国美術館連絡協議会紀要2』中に、印章制作者、印章制作年、印文の読みとその典拠、それぞれの印を使用した代表作などを明示して、初めて「小川芋銭印譜集」として纏めた。

 私が印文を調査していたころは、芋銭が最も愛用していた「貧女燈」を「貧中燈」などと読む有様であったから、芋銭の印章について何かを調べようとする人など誰も存在しなかった。最もそれは現在でも変わりない。たまに印章(読みや典拠、制作年を含め)や印人について触れる場合、上記の文献の範疇を超えるものはない。いずれもが参照に止まり、私が読めない印文は、同じように読めないし、ある印文の読み等に自信がないというものまで、疑いもせず同じ読みをしている。すべて引用元を記さずにである。これでは、研究は進むべくもない。

 そのような事情もあったので、かつて牛久市に「小川芋銭研究センター」が存在していたとき、『小川芋銭印譜集』の刊行を企画した。これが刊行されていたなら、芋銭の印章に関する研究は格段に進むことだろうと確信していたが、「小川芋銭研究センター」は要らざる存在と評価が下され、閉鎖となった。当然、印譜集も未刊に終わった。

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