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芋銭のしょうがい|こどものページ

最晩年の芋銭

最晩年(さいばんねん)の芋銭。しゃしんをクリックすると、大きながめんになります。下のずやしゃしんも、おなじように大きながめんでみられます。

小川芋銭(うせん)は、明治元年(1868)、江戸赤坂溜池(えど あかさか ためいけ)にある牛久藩邸(うしくはんてい)に、小川家の長男(ちょうなん)としてうまれました。はじめ「不動太郎(ふどうたろう)」と名づられました。これは、なかなか子どもにめぐまれないので、愛宕下(あたごした)の不動尊(ふどうそん)に、なんとか子どもがほしいとお参りをしたことによります。ほどなく、「茂吉(しげきち)」と名まえがあらためられました。生まれた子をみて、「この子は3才までそだたないだろう」と医者(いしゃ)にいわれるほど、体の小さいよわよわしい子どもでした。

芋銭の生まれたところ

芋銭の生まれたところ。江戸じだいの地図から。

明治4年(1871) 世の中のしくみが大きくかわる「廃藩置県(はいはんちけん)」がじっしされ、それまで牛久藩(うしくはん)の武士(ぶし)であった小川家は、あたらしいしょくぎょうを、さがさなければならないことになりました。芋銭の父は、のうぎょうをえらびました。それまで武士であった人が、のうぎょうをするのですから、たいへんなけっしんがひつようでした。小川家は、この年、旧藩地(きゅうはんち、牛久藩がおさめていたちいき)の牛久にうつりすむことになりました。芋銭が牛久にうつったのも、この年の秋のことでした。芋銭は輿(こし、のりものの一つ)にのって、牛久にむかっていたのですが、とちゅう、小金ケ原(こがねがはら、今の柏市)というところで、野馬(やば)のむれをみて、手をたたいてよろこんだということです。芋銭は、馬がすきだったのです。大人になってから、このことを思い出し「小金ケ原野馬図(こがねがはらやばず)」という作品をせいさくしています。

おさない芋銭は、せいちょうして小学校に入りました。にゅうがくした年はわかりませんが、明治11年3月(1878)には、牛久小学校下等(かとう)小学だい六級をそつぎょうし、明治12年10月(1879)には、牛久小学校下等だい三級前期(ぜんき)をそつぎょうしました。このときのそつぎょうしょうしょのうらには、「優等(ゆうとう)」と書かれていますので、芋銭は、とてもゆうしゅうだったのです。
それからまもなくして、芋銭は東京にでてしんせきの家にすみ、こまものや(にちようひん、けしょうひんなどをうるみせ)ではたらくことになりました。ようじをいいつけられると、はだしでジャリみちをあるき、とてもいたかったと、そのころの思い出を、おとなになってから書いています。また、小学校にもかよい、明治13年10月(1880)、桜田小学じんじょうかだい三級後期(こうき)をそつぎょうしました。12才の芋銭は、これからのち、学校には、いっさいいっていません。

明治14年(1881)、13才になったうせんは、本多錦吉郎(ほんだきんきちろう)という人がうんえいする画学専門校「彰技堂」(ががくせんもんこう「しょうぎどう」)に入り、明治18年5月(1885)まで西洋の絵をべんきょうします。「彰技堂」を出たあと、芋銭は先生につくことなく、あらゆるものを一人でべんきょうをし、学者さえもかなわない、おどろくほど高いきょうようをみにつけました。
「彰技堂」をでたあとのすうねんかん、芋銭がどこでなにをしていたか、ほとんどわかっていません。

彰技堂じだいの芋銭

「彰技堂」で、絵をべんきょうしていたなかまとのしゃしん。

明治23年(1890)、22才になった芋銭は、朝野(ちょうや)新聞社の画工(がこう、さしえなどをえがく)として、一時てきなやとわれではありますが、しゅうしょくをします。この年、芋銭の絵が、はじめて新聞にけいさいされました。どんなにか、うれしかったことでしょう。

しかし、明治26年(1893)、画家になりたいという思いをいだきながら、芋銭は牛久へかえり、父といっしょに、のうぎょうをすることになりました。

しかし、どうしても画家になりたいというゆめをすてきれず、のうぎょうのあいまに、かくれるようにして、絵をえがいていたということです。

明治28年(1895)、芋銭は、牛久のだいくのむすめ「黒須(くろす)こう」と、けっこんします。「こう」は、きだてのよいはらきもので、画家芋銭を一生ささえつずけました。

​このころから、芋銭は「はいく」なども作るようになり、水戸や取手の「はいく会」にたびたびでかけました。また、ただ絵をえがいていることにまんぞくできず、新聞社に絵をとうこうするようになります。芋銭の絵のかちをはじめにみとめたのは、さとうしゅうひん(佐藤秋蘋)という「いはらき」新聞の人ぶつです。明治30年だいの、はじめごろのことです。

芋銭をみとめる人はだんだんふえてきましたが、とうじは「えかき」というより、「はいく」を作るひととして知られていたようです。芋銭はえかきになるためのどりょくをつづけ、「けんしょうかいが」にもおうぼし、みごとに第一等(だいいっとう)にとうせんしました。

その絵は、明治36年1月1日(1903)の「よみうり」新聞に大きくけいさいされました。これによって、芋銭の名は、おおくのひとに知られるようになりました。

さらに明治41年、芋銭は、はじめての自分の本『そうじゅうまんが(草汁漫画)」をしゅっぱんしました。しょきの芋銭をしるために、とてもじゅうような本です。

懸賞絵画第一等当選 新年の意

​けんしょうかいが第一等とうせん「新年の意(こころ)」

​このあと、明治じだいのおわりごろまで、芋銭は、新聞・ざっしなどに、たくさんの「さしえ」をえがきました。ただ、とうじの「さしえ」というのは、木版(もくはん)でしたから、木版をほる人や、する人のぎじゅつがよくなければ、うせんがどのようにいっしょうけんめい絵をえがいても、けっかはきたいどおりにはなりません。こういうせいげんがあったため、芋銭はさしえから、しぜんに、本絵(ほんえ、木版によらない、ちょくせつふででえがいた絵)、本絵へとすすんでゆきました。じだいてきにいうと、明治のおわりころのことです。

また、明治のおわりから、大正のはじめは、芋銭にとってひじょうにじゅうようなじきで、がふうが「ようが(西洋の絵)」から、「にほんが(日本画)」へとへんかしてゆきました。

大正4年(1915)、47才になった芋銭は、画家のなかまたちと「さんごかい(珊瑚会)」という絵のだんたいを作り、画家として、ほんかくてきにかつどうをかいしします。​

大正6年(1916)、「さんごかい」のてんらん会にしゅっぴんした、「にくあん(肉案)」という作品がみとめられ、芋銭は、にほんびじゅついん(日本美術院)という、びじゅつだんたいのどうにん(同人)にすいせんされました。それいご、芋銭は、にほんびじゅついんをかつやくのちゅうしんとして、すぐれた作品をたくさんえがいてゆきます。

それにつれて、芋銭の絵をあいする人や、「こうえんしゃ(後援者、けいざいてきに芋銭をあとおししてくれる人)」が、しだいにふえてゆきました。

肉案(にくあん)

「​肉案(にくあん)」 大正6年作​

このあとの芋銭のかつやくのようすをみてゆきます。
大正6年(1917)、にほんびじゅついんのどうにんとして、「さわぐにごけい(沢国五景)」を、はじめて、にほんびじゅついんのてんらん会に出品します。
大正10年(1921)、アメリカかくちをまわるてんらん会に、「かっぱとそのけんぞく(水虎と其眷属)」と「わかばにむさるるすたま(若葉に蒸さるゝ木精)」を出品。どちらも、日本の「ようかい」をえがいた作品です。アメリカの人たちは、これを見ておどろいたことでしょう。
大正12年(1923)、さんごかいのなかまの「かわばたりゅうし(川端龍子)」といっしょに、てんらん会を東京でひらきます。このときの作品をあつめたのが、『うせんしじっしゅ(芋銭子十種)』という「がしゅう」です。これは、芋銭にとって、日本画としてはじめての「がしゅう」です。
このてんらん会の数ヶ月あと、東京に大きなじしん(地震、関東大震災)がおこり、たいへんなひがいがでました。このしぜんさいがいは、人びとの考えや、げいじゅつのありかたなどにまで、大きなえいきょうをおよぼしました。
昭和3年(1928)、芋銭は「かんれき(還暦、60才)」をきねんして、明治44年から昭和3年までにえいた作品をあつめた、『うせんしかいしちがさつ(芋銭子開七画冊)』をかんこうしました。
昭和12年(1937)には、「こき(古稀、70才)」をきねんして、こてん「個展(こじんのてんらんかい)」を、東京でひらきました。このときには、しゅっぴんされた芋銭の作品をかいもとめる人がさっとうし、大せいきょうだったということです。「こき」をきねんした『うせんしかいはちがさつ(芋銭子開八画冊)」もかんこうされました。このがしゅうにけいさいされた作品は、どれもすぐれたものばかりです。うせんのげいじゅつを知りたいと思ったら、このがしゅうは、ぜったいに見てください。このホームページの「デジタル画集」のページでもみることができます。

時はすこしもどりますが、昭和12年9月、芋銭はそれまですごしていた、「ふみむら(文村、今のとね町)」から牛久にかえり、あたらしくたてられた「うんぎょてい(雲魚亭、現在は「小川芋銭きねんかん」としてこうかいされている)」に入ります。これは、芋銭が絵をえがくのにせんねんできるようにたてられました。ここで、芋銭は『かっぱひゃくず(河童百図、カッパの絵を百あつめたもの)』というがしゅうのへんしゅうなどに、いっしょうけんめいとりくみました。しかし、年が明けた昭和13年1月のすえ、やまいにたおれ、このとしの12月、みんなにおしまれながら、70年のしょうがいをとじました。おはかは、牛久市内の「とくげついん(得月院)」にあります。

芋銭のしょうがいは、つねにやまいにくるしめられ、心のはればれする日はほとんどありませんでした。だからこそ、まずしくてよわいたちばの人たちのことを、よくりかいしていました。芋銭の絵がいつのじだいでも、おおくのひとたちにあいされているのは、やさしさにあふるているからです。いっぽう、芋銭の絵は、とても高いきょうようにあふれていて、ひじょうにむずかしいめんもあわせもっています。おとなになってから芋銭の絵をみなおすと、とてもおくふかいものであることがわかってくるでしょう。
いつまでも、芋銭の絵をあいするきもちを、わすれないでください。

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