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院展出品作「丹陰霧海」について

 かつて『小川芋銭全作品集』本絵編(牛久市教育委員会 2013年)の巻頭に、再興第十三回日本美術院展出品作「丹陰霧海」について次のような拙論を書いたことがあった。

 

 さて、話は変わるが、挿絵編の論中に芋銭の本絵に関していくつかの疑問を呈しておいたので、順不同ではあるが以下にそれらについて記してゆくことにする。

 先ず第一に、最も信頼すべき日本美術院展覧会出品画の図版中にも、疑義を呈せざるを得ないものが存在するということである。これこそが、この度の『小川芋銭全作品集』が、芋銭生存中の文献類から引き出した図版を以て構成することとになった最大の原因である。当初から、日本美術院展への出品作図版には、何の問題も無いと考えていたから、実情を知ったその時の驚きたるや、筆舌に尽くしがたい物があった。このことがあってから、総ての院展出品画を精査したことはいうまでもない。

 芋銭は、大正15年、再興第十三回日本美術院展に「丹陰霧海」(図版番号336)を出品した。まるで巻物を思わせる横長の作品である。現在はこれが4つに分断され、その内の画面の大きい2つのみが別々の道を歩いていると言われる。図版(全作品集を参照されたい)に示したのはその左半分に当たる側の岩の部分を拡大したものである。勿論これは、院展図録から採取したものである。これに対応する作品は、流布する画集図録等でたやすくみることが可能だから、それらを以て対比していただきたい。如何だろうか。どう甘く見ても双方が同じとは言えないだろう。実のところ、もう少し周囲にまで図版の範囲を広げたかったのだが、スペースの関係で致し方ない。岩に生える植物や点苔の手法にも目を向けると、これも同様に異なっている。では、このような差異が一体何故生じているのか、早々簡単に結論づけられないが、とにもかくにも、同作品が最初に図版化されたもの、言い換えれば日本美術院展覧会図録と、現在展覧会場や画集等でみるものとでは、明らかに相違があることは揺るぎない事実である。繰り返しになって恐縮だが、こういった類いの事例は他にもあるので、芋銭生存中公にされた印刷物中の図版のみを採用することにしたのである。

 この作品には、分断されたもう一方が存在するようである。上記同様に双方の図版を比較すると、先ず点描の数の差の異常さが目につく。原図版をどのように加工しようと(濃さ、薄さを違える)矛盾が生ずるのは、誰の目にも明らかである。

 したがって、双方は同じ物とは言いがたい。実のところ、当初は一見して直ちに気づく右側だけに注目していたのだが、試みに左側も検証してみて驚いた次第である。芋銭の作品にはこういう類いのものがあるので、よほど慎重を期して当たらないと、ある意味で多様な画集を作りかねないし、また多様な結論を導き出しかねない。

 芋銭研究に警鐘を鳴らす意味合いを込めて、この作品を取り上げ、戯れ言とも取られ兼ねない考えを述べた次第である。

 

 上記の朱字の部分でも触れておいたが、差異がなぜ生じているのかについて考えてみる。まず、芋銭書簡から「丹陰霧海」に関わる記述を、時の経過に沿い記してみる。

 

1 昭和4年11月16日付 西山泊雲宛

  霧海横山氏承知致しくれ候

 

2 昭和4年11月27日付 齋藤隆三宛

 丹波よりの頼み横山先生願ひの霧海題字 其後霧海送り來り見候處未だ巻には仕立てゝなく候得ば 何卒御隨意に二字御揮毫を願上度存候 … 巻のタテハ一尺八寸六分に候 攫霧 と願上度存候

 

3 昭和5年1月18日付 齋藤隆三宛

 然ば此度は横山先生題字の突如として御送り被下望外の欣喜 縹緲 の二字全巻を壓して煙霧を呼ぶの概あり泊雲子の喜こび眼に見ゆる如くに候

 

4 昭和5年1月24日付 西山泊雲宛

 畫巻中 諸所筆不足力不足の處 加筆致置き候 稍見よくなり候つもりに候

 

5 昭和5年4月10日付 西山泊雲宛

 霧海巻跋も早く記し御送りし度思ひながら右の始末にて怠り居り候

 

6 昭和5年7月29日付 西山泊雲宛

 霧海の跋もまだ出来不申恐縮ニ候 九月中旬頃御出でヒ下バ是非認め御渡し申上度存候

 

7 昭和5年9月3日付 西山泊雲宛

 霧海の跋もかく様可致畫の方も多少加筆以前よりは見よげになり候事と被存候

 

8 昭和5年9月21日付 西山泊雲宛

 さて御申越寸法一尺七寸程にて霧海心懸くべく候 従來のものは今より見て餘りに窄き主觀にてあれでは丹波の霧に呑まれたる形に候

 

9 昭和6年2月2日付 西山泊雲宛

 偖霧海及び文字の事御來示御尤に存候も暫らく御猶豫を願ひ候てやがて軽暖相催ふし宿疴癒へ候はゞ早々文字に取かゝり文字を了する後霧海にもとりかゝり可申候

 

10 昭和6年7月21日付 西山泊雲宛

 迂生石像寺山の霧は二点の小圖に分ち候方宜しくと被存候

 

11 昭和7年1月14日付 西山泊雲宛

 又彼の霧海も出來可申存候 是は信夫丘陵の霧を見て丹波の霧を更に畫中に捉ふるの術を得たるの心いたし候 丈(立)一尺七寸と記し候

 

12 昭和7年2月4日付 西山泊雲宛

  又御出での時御世話なれども彼の霧海御携帯願度存候 □時雲霧世界に生じたる氣味の参考上 一寸一見し度存候が……

 

13 昭和7年2月11日付 西山泊雲宛

 今日霧海の御送小包正ニ受納仕候 只今霧海一覧の處□墨痕の色のミをミて更に秋霧の氣ハ見るべきものなく 多聞巌の如き多少信ありしもの今見れば□を留むべくもあらず 久しく嘆息して巻を掩ひ候 当時の嘲罵に冷然たりしもの今日ハ冷汗となり候 御憫笑可ヒ下候 やがで面目一新の後精鍳を可得存候

 

14 昭和7年8月4日付 西山泊雲宛

 豫而御預りの山陰霧海ハ此秋是非かき可申存候

 

15 昭和8年11月29日付 西山泊雲宛

 霧海の巻心にかゝりながら延怠致しをり申訳なく候

 

1 まず「丹陰霧海」の形状等について

 当初は「軸装」であり、書簡2に、「其後霧海送り來り見候處未だ巻には仕立てゝなく候」とあるように、昭和4年11月27日現在では、未だ軸装のままである。初めて「畫巻」という言葉が見えるのは、昭和5年1月24日付の書簡4で「畫巻中……」と記されている。同年4月10日付の書簡5では、「霧海巻」とあり、昭和7年2月11日付の書簡13では、「久しく嘆息して巻を掩ひ候」とあることから、当初軸装であった「丹陰霧海」は、時期は明瞭にできないものの、巻物(巻子本)に改装されたことは事実と解しても不都合はないだろう。

 泊雲は改装にあたり、最初に槿山大観の題字「攫霧」(芋銭が、斉藤隆三を通して依頼。実際には「縹緲」という二文字が届いた。)を、続けて芋銭作品「丹陰霧海」、最後に「芋銭の跋」で全体の構成を考えた。しかし、芋銭の跋がなかなか出来上がらないため、完成には相応の時を要したようだ。ただ、跋に関しては、昭和6年2月2日付の書簡9に「偖霧海及び文字の事……」と記され、これ以後跋に関する記述は、現在手元にある資料等の中に見出せないから、この書簡9より左程時を経ない頃に跋は完成したと推測される。それにしても、大観の題字を得た「丹陰霧海」の所蔵者・西山泊雲の喜び様は、書簡3にあるように如何ばかりであったろうか。

 形状に関しては、次のことにも触れておかなければならない。昭和6年7月21日付の書簡10に、「石像寺山の霧は二点の小圖に分ち候方宜しくと被存候」とある。書簡中に明らかなように、芋銭は出品作の呼称を「霧海」と限定している。新たに描く予定の題名も「霧海」と呼び、「石像寺山の霧」と呼ぶ例はない。「石像寺山の霧」とは、出品作のことではなく、石像寺にある下絵を指す。しかし、石像寺蔵の下絵の現状は当時のままで分割されてはいない。

 

2 続いて「丹陰霧海」の出来について

 作品が出来上がった当初は相応の自信があったようだが、後に見直してみて芋銭はその出来に満足していない。

書簡4では「畫巻中 諸所筆不足力不足の處 加筆致置き候 稍見よくなり候つもりに候」、書簡7では「畫の方

も多少加筆以前よりは見よげになり候事と被存候」、書簡8では「今より見て餘りに窄き主觀にてあれでは丹波の

霧に呑まれたる形に候」、書簡13では「只今霧海一覧の處□墨痕の色のミをミて更に秋霧の氣ハ見るべきものな

く 多聞巌の如き多少信ありしもの今見れば□を留むべくもあらず 久しく嘆息して巻を掩ひ候 当時の嘲罵に冷

然たりしもの今日ハ冷汗となり候」と漏らしている。これが新たな作の制作に繋がった要因であると思う。ただ、

新たな「丹陰霧海」が完成したのか否かは、種々資料を探ったが分からない。

 昭和3年、芋銭は院展に丹波の霧を題材とした「浮動する山岳」を出品した。その翌年11月27日付斎藤隆三宛の書簡中に、「霧海も當時深き深き霧の海中に身を歿し後に病臥候程慥と霧を方寸に納めたる後畫にしたる覺へなりしも今日之を點検して四分は霧に逃げられたる感あり慚汗此事に存候 但後の浮動する山(「浮動する山岳」)

にて逃したる四分を攫み戻し得たるか」と記し、「丹陰霧海」の出来について、改めて感想を漏らしている。

 

3 本題の「丹陰霧海」の図柄の相違について

 まず注目しなければならないのは、書簡4に「畫巻中 諸所筆不足力不足の處 加筆致置き候 稍見よくなり候つもりに候」、書簡7には「畫の方も多少加筆以前よりは見よげになり候」と記されているように、芋銭は院展出品から数年後、「丹陰霧海」に筆を加えている。殘念ながらどの程度筆を加えたかその全容を知る術はないが、芋銭自身が後に加筆したのは厳然たる事実だから、出品当時と異なっているのは当たり前の話である。

 だからといって、現在分断されたといわれる作品が加筆後のものであるとするのは早計であろう。筆法その他あらゆる方面から検討されるべきで、その後に何らかの方向性が導き出されることになるだろう。そのためには、どうしても出品当時の図版、換言すれば原点に立ち返る必要がある。更には、石像寺蔵の「丹陰霧海」下絵も、筆法・表現手法などを検証するとき有用であることは論を待たない。

 検討すべきことの一つの例として、分断されたといわれる右側の点描の量の顕著な差異について考えてみる。出品当時の図版をみると、霧でおおわれた所々に線描や点描が認められる。これは、霧の動き、霧の中から僅かに露出した稜線やその上の大きな樹木などを表現している。この手法は、低い物は霧に掩われ、高い物は霧の上に出るという、極めて自然の理に適ったものである。ところで、現在流布する多くの画集や展覧会図録を見ると、いたるところに樹木等を表現する点描が存在する。「丹陰霧海」は広大な空間を画中に収めたものだから、点描といえど濃淡などにより遠近の表出は欠かせない。原図には見られない点描が、合理的で効果的なものかを検証することも解明の糸口となるだろう。

 『小川芋銭全作品集』は、このようなことも考慮に入れて、他の作品についても、いつでも原点に帰ることのできるよう、出品当初の図版で構成した次第である。

 巻子本に改装された「丹陰霧海」について、大観の題字や芋銭の跋は何処へいったのか、はたまた絵画が4分割されたか否かも、現時点では資料等上から実証することはできない。大観の題字は単独で作品となる得るだろうが、芋銭の跋は巻子に附属してこそ相応の価値がある。「丹陰霧海」に関わる疑問について、これらを実証する資料や研究成果が出てくるまで安易な結論は出せない。したがって、分からないものは分からないのだからそこで留め置くほか術は無い。繰り返しになるが『小川芋銭全作品集』の巻頭拙論においても、「図版には明らかに相違がある」というところに留めている次第である。

4 その他

 ネット上に、この「丹陰霧海」について、「(比較の用をなさない)アナログ印刷図版(コロタイプ印刷図版)とデジタル印刷図版とを比較し贋物と断定した「『小川芋銭全作品集』は、禍根を残すことになるから発売禁止に」「「大正時代の図版」と「最新の図版」を比べてその違いを論じることが論陣……「英語の教科書」と「数学の教科書」の違いを. 真顔で論じているのと同じで、俎上にのせること自体ナンセンス」などという書き込みが、相次いでなされている。繰り返される批判は、アナログ・デジタルに拘泥するのみで、芋銭が加筆した事実等には一切触れていない。多分その知識がないのだろう。この事実を論じた芋銭文献は、かつて存在しなかった。

 批判を要約すれば、「比較不能なアナログ印刷図版(コロタイプ印刷図版)とデジタル印刷図版とを比較し、下らない論文(書き込みを引用)を以て、愚かな結論を導き出した」というところだろう。

 『小川芋銭全作品集』を否定する行為は、言論の自由であるから触れない。だが、明治期から続く『国華』や、審美書院刊行の数々の名画集、高島屋美術部刊行の富岡鉄斎の画集等々、これらはコロタイプ図版で構成されているし、更には、最近刊行された『市井展の全貌』東京美術倶楽部編著、『蕪村全集』六 絵画・遺墨 講談社  なども、過去に遡りコロタイプ印刷画集より図版を採録している。

 「コロタイプ印刷図版は、比較の用をなさない」というなら、前記した貴重な数々の歴史的な画集等についても、美術研究特に美術作品の比較対照の面で、全く役に立たないことを学術的に実証しなければ筋が通らない。それを実証し得て、はじめて個別の文献批判が可能になる。ネット上の批判は、この工程が欠如している。

 更には、『小川芋銭全作品集』は個人の思いつきとか功名心から刊行したとの書き込みもある。

 芋銭に興味を持って三十有余年、全勢力を傾け収集し続けた文献類を以て、『小川芋銭全作品集』の作成に私はあたったつもりだ。芋銭研究において、後にも先にも例のない芋銭文献を世に出したことについて、恥じるものは何一つ無い。収録した全芋銭作品の画賛について、その読みと典拠を記した文献等がかつてあった(本絵では断片的なものが存在)だろうか。それだけでも益するところは充分にあると思っている。

 芋銭といえば、「河童百図展」についても、次のような書き込みがある。

 「小川芋銭河童百図展」と題し、この展覧会開催にあたり○○館(註:ここでは伏せる。以下同じ。書き込みには固有名詞あり。)の職員から聞いたこととして、「芋銭展の企画は正式には決まっていませんでした。突前ひとりの学芸員が独断専行してマスコミに『河童百図展』の日程をリークし、○○館では仕方なくその企画を黙認したのが事実です。」と記されている。

 ○○館で、職名に「学芸員」とあるのは長い歴史の中で私ただ一人で、後は全員「研究員」である。「ひとりの学芸員」と書いたとて、誰を指すか容易に特定できる。その「ひとりの学芸員」が私だとした場合、実は、私は病を得て約1年半程職場を離れていた。その時期や事情及びその後の経緯を記せば、このような書き込みなどは、いとも簡単に覆すことができる。

 同展では、芋銭を優れた南画家と位置づけ、それまでの芋銭研究・芋銭論とは全く異なる視点から作品を分析し、併せて刊行した図録には、百点(図)総てについて、1図づつ左ページに図版、右側ページに解説(分析結果を記す)を付し、南画家・芋銭の世界を紹介した。特記すれば、芋銭と北斎との関係を、この展覧会で初めて明らかにした次第である。図録を読んで頂ければ、何故○○館で芋銭を取り扱ったのかを理解していただけると思う。視点を変えれば、別の芋銭像が見えてくるということを、実例を以て示すことができたと思っている。

 それにしても、「芋銭展の企画は正式には決まっていませんでした。」とか、「一人の学芸員がマスコミにリーク」及び「○○館では仕方なくその企画を黙認したのが事実」などは、本当にあったことなのだろうか? ○○館の職員が答えたと記してあるので、展覧会を企画担当した者として真実を知りたく、同館に調査を依頼した。同館からは「そのようなことは確認できなかった」と書面を以て回答があった。

 では、捏造をしてまで拡散する目的とは一体何だろうか。

 以上のような書き込みに逐一つきあうのは意に反するが、後々の混乱を考え記した次第である。

 なお、併せて別ページ「芋銭の二つの別号について」の文末も一読願いたい。

 ところで、「河童百図」に話が及んだので、ついでに記しておきたいことがある。

 ネット上に、「芋銭の書の線Ⅱ」と題し、「「河童百図」の題簽の文字は、顔真卿の影響が色濃く残っています。」という書き込みがある。いま、その中で特徴的な文字「図」について記してみる。下図(左:芋銭書『河童百圖』題簽、右:解縉書「圖」。図版をクリックすると拡大される)に示すとおり、これは中国・明代の書家「解縉」の書(*)を参照したと考える。  *字(辞)書類を参照されたい。

 また、書聖を語るに「王義之」ではどうにもならない。他に指摘すべき大切なことが多数あるが、本題からますます離れてしまうのでここで留め置きたい。芋銭像が紆曲しようが関わらない。

 

河童百図題簽

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