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『三愚集』について

*本稿は、平成4年8月、単独舎から刊行された『三愚集』復刻本に別刷りとして付属する解題を再録したものである。一部加筆訂正

 『三愚集』は、大正九年七月二十八日に刊行された木版による画帖仕立ての俳画集で、編纂兼発行者は、茨城県新治郡土浦町の秋元梧樓、木版彫刻者は大倉半兵衛、印刷者は西村熊吉。非売品。発行部数及び頒価は奥付には記載がない。『三愚集』は、小林一茶の二十七の俳句を夏目漱石が書し、芋銭がそれぞれに俳画を描いた。題『三愚集』は、漱石によるものである。

 なお、『三愚集』は、画帖を開いたとき、右側に漱石の書、左側に芋銭の俳画が収められ、書・俳画が一目で楽しめるようになっている。当HPのデジタル画集の頁には『三愚集』を収録しているので参照されたい。

1 『三愚集』の成立について

  『三愚集」の編纂兼発行者の秋元梧樓が高浜虚子を介し夏目漱石を知るのは、明治四十二年暮の事である

(注1)。これ以後両者は『三愚集』『明治百俳家短冊帖』刊行で深く関わることになる(注2)。

 戦後、秋元梧樓は、俳誌『みつうみ』を主宰した。梧樓はその第三号に、「明治俳壇を窺ふ(六)夏目漱石

君」と題し、『三愚集』の刊行までの経緯を記している(注3)。これは約四十年前の回想であるため、内容に不確実な個所が認められるが、それはさておき、『三愚集』の成立過程を記した文献はこれ以上のものは他に求めようもなく、また『三愚集』に関わる新資料でもあるので、次に引用(一部略)する。

 *本題から逸れるが、平成10年5月9日、長野県松本市の郷土出版社から発行された『三愚集』解説(解説筆者:矢羽勝幸氏)中に、「三 秋元梧樓「明治俳壇を窺ふ」と題して、『三愚集』出版のいきさつを述べた梧樓の文章がある。この文章の出現によって従来の『三愚集』に関わる漱石研究が根底から覆る、まことに貴重な文献であるので、少々長いが次に紹介する。」と書かれている。しかし、矢羽氏の論が出る6年前に、単独舎からの『三愚集』復刻本に付属する別刷りの解題で、既に秋元梧樓の「明治俳壇を窺ふ」という文章は世に紹介済みであるし、『東海美術』の広告についても同様に既に紹介済みである。矢羽氏の解説にある「従来の『三愚集』に関わる漱石研究が根底から覆る、まことに貴重な文献である」とか、「従来『三愚集』に関する論文の多くは、選句者を漱石と速断し、一茶作品の内容から漱石の文学観を論じているが、それは全くの見当違いである。」などは、初めてこの種の資料を見出した時に言えることであって、既に6年前に指摘されているのだから、少なからず違和感を覚える。それに加えて、矢羽氏の本論末の参考文献一覧には、6年前の文献類は何故か除外されている。矢羽氏がこの文献の発見者という意図が透けて見える。

 ついでながら記しておくと、矢羽氏は『三愚集』第二十六句の芋銭画について、「芋銭画は大根役者」と記している。そうだろうか? これは、人物の顔を見ると歌舞伎特有の隈取りが見えることから、歌舞伎の演目を題材としてしていることが容易に推測される。その歌舞伎の演目とは、「矢の根」で、描かれている人物は「曽我五郎時致」。芋銭の俳画では何故大根を振りかざしているかというと、「たまたま大根売りに来た馬子の馬を奪い、大根を鞭にして馬を急がせ、兄十郎を助けに馳せる」という場面を描いたもので、馬こそ描かれていないが鞭の代用として大根を振りかざしている様子が、人物の動きを見ても分かるだろう。決して、短絡的な「大根役者」ではない。このように『三愚集』の芋銭の俳画は難解であり、一朝一夕に解き明かすことは困難である。

 さて、本題に戻ることにする…

 明治俳壇を窺ふ(六)

  夏目漱石君   秋元虚受

 明治四十五年五月の箏である(注5)。私は「俳諧寺一茶」と「七番日記」とを手に入れた(注6)ので通読不止、始めて一茶の人間味の俳人なることが分かった。

 その句集から好きな左の句を書きぬいてみた。

 あら玉の年立帰る虱かな

 (*以下略す。『三愚集』と全く同じ順に二十七句の記載あり。)

 以上の二十七句の俳句を小川芋銭画伯に書いて貰ひ其の上賛画を附けてもらへば飄逸離脱の筆致は能く一茶の句境や風格を発露せしめるにふさわしいものと思ふて、早速ちいさき絹へ其の俳句を書いて貰つたが、更に又次のやうな考えを起こした。

 夏目漱石君は文豪である。そして人格者である。そして又変つているお方だ。この一茶の俳句を夏目さんが書いて、芋銭さんが俳画を描くことにしたら是が容易に得難い逸品であると。その事を芋銭画伯に懇談すると、

 「それは誠に結構なことである」と

快諾されたのであつた。

 この時、夏目さんには例の博士号辞退問題が起つた(注7)、當時の博士会が満場一致で文学博士の学位をさずけることに定めて通知をした処、左の如き書をぶつゝけてしまつた。

 ……略……

 一茶の俳句を書いて貰ふ人は夏目さんの他にはないと、斯う思ひ込んで一茶の句稿を持参してお話しをした。

 「私は今度一茶の句を選し其の俳画を芋銭画伯が描きそして其の句を書いて貰ふ方は先生を除いて他に適当のお方がない。このお三人の合作で始めて一茶の風格を世に紹介してみたいので芋銭さんは承諾されました」と御願いすると、夏目さんは

「君は一茶の句を書くに僕を除いて他に其の人がないと言ふがどうゆう考えだ」と■問された。

「いやどうゆう考へがあると言うのではありませんが崇高なる先生の人格がふさわしく、特に近頃かの博士号をお受けなさらぬ御気質が何だか私をして、一茶の句を書いていたゞきたい気分になつたのです」

とお答えした。すると、

「そうか。君はそう思ふのか。袖引かれては仕度がない。書いてあげましょう。」と

 其の時の夏目さんの笑い顔が今尚彷彿として顕出されます。前記一茶の二十七句を絖絹へ書いてもらつた。題名と序文は、数日後に贈って下さつた。

 句は一茶 畫は芋銭 書は漱石 一茶は愚物也 芋銭は更に愚物也 漱石は最も愚物なり 然を秋元君の乞によつて数句を  巻頭に題す    漱石

 私はこの文意を能く考へた。誠に面白い序文で其の人々を趣味的に扱つてゐるが欲を言へば今少し通俗的に其の意を延長した方が一茶の性格に応しくはないかと考えた。更に絹地をおくつてお願ひしたが何等通知がなかつたのでお伺ひすると、夏目さんは立ちて書架を開き、状袋に入つたまゝお持ちになつて

「今、君のところへ贈らうと思つて、君の注文通りに書き直して置いたが、前の方がいいかな!」と

 申された。今思へば私ほど勝手の男はなかつた。序文の書直しや其の帖の命名までもお願ひしたりした私を夏目さんは屹度押しが強い勝手な男と憶ひなされたに違ひない。其の時を顧ると懐旧の情が湧き御温情の程がおなつかしくなつて■らない。この帖は全部、夏目さんの創意で名付け親となられて完成された。是が謂ゆる「三愚集」である。

 三愚集序文

 句は一茶 畫は芋銭 書は漱石それ故に三愚集という 句を作りて後世に残せる一茶は気の知れぬ男なり。

 その句を畫にする芋銭は入らざる男也 頼まれて不得已一茶の句を写せる漱石は三人のうちにて一番の大馬鹿也。三愚を一堂に会して得意なる秋元梧樓に至つては賢か愚か、殆んど判じかたし。

 四十五年五月   漱石

 此に於て私の計画通りに三愚集が発行されてこれ程嬉しいことはなかつた。芋銭画伯の賛画二十七枚どれを観賞しても俳味深くそして又同画伯の装幀である。

 表紙には芭蕉布を用ひ、その上に漱石さんが三愚集と書きその右方へ芋銭さんが芭蕉翁と烏が回答されてゐる俳画(注8)を描き、其の裏面へは兎が杵をかついでお月様の傍に立てる俳画を描き、其の月の中へ漱石さんが、「御覧の通り屑家かな」と一茶の句を書かれている。

 剰へ、芋銭さんは其の帖の□の内裏へ、漱石さん芋銭さんこのぬしの三人の似顔を描き何れも其の特長を表現してをる。そして其の顔と顔との間へ左の文言を書れている。

 芭蕉は自然に行き一茶は人に行く。一茶の句は我喜ぶ所なり。則ちこの画を作りて三愚の一に入りたる我は愚の上に愚の光栄とや言はん(注9)

 この名文こそ夏目さんの序文と相俟ちてこの帖は正に天下の逸品也と世上の好評を博したのであつた。

 ……以下、略……

これらをもとに『三愚集』成立の過程を記す。

① 明治四十二年暮れの頃、秋元梧樓は、高浜虚子を介して夏目漱石を知る。

② 『俳諧寺一茶』『七番日記』を読み興味を覚えた秋元梧樓は、その中から好みの二十七句を選ぶ。今まで、同句の選者は漱石とされていた(注10)。

③ 俳画集様のものを想定し、二十七の書と俳画を依頼され、芋銭はそれらを制作する。

④ 秋元梧樓、前記③を企画変更。二十七の句の書と俳画集の序を漱石に、俳画を芋銭に依頼。

⑤ 漱石の二十七の句の書成る。

⑥ 漱石の第一回目の『三愚集』序成る。

 「句は一茶 畫は芋銭 書は漱石 一茶は愚物也 芋銭は更に愚物也 漱石は最も愚物なり 然を秋元君の乞によつて数句を 巻頭に題す  漱石」 *この序文は、今回初めて紹介されるものである。

⑦ 秋元梧樓、新たな序を漱石に依頼。

⑧ 明治四十五年五月、新たな漱石の序成る。併せて俳画集を『三愚集』と名付ける。

  *漱石の序文は、もともと『三愚集』にみるような分割を想定して書かれたものではなかった。一葉に書か

 れたものを、編纂者が単に帖の体裁従い三つに分けたものである。したがって、序の各々は、文字の構成上不

 自然さを免れない。

⑨ 大正二年三月三日、芋銭の一文なる。併せて芋銭は、漱石・芋銭・梧樓の似顔絵を描いた。画面右から芋

 銭、漱石(芋銭は漱石に会っていない。そのため似顔絵は髭のみが描かれている)、梧樓(梧樓の似顔絵は写

 真を参照した。その写真は牛久の小川家に保存されている。)の順で、右下は芋銭(注11)の、左下は梧樓の

 雅印(注12)である。芋銭が二十七の俳画を描いた時期は不明だが、その中には、紙誌上に既発表のものを

 更に改めたものも認められる。『三愚集』第二句の俳画は、俳誌『ホトトギス』第十四巻第六号の「春雪」

 (注13)に、第二十三句の俳画は、同誌第十三巻第八号の「外風呂」(注14)に、第二十七句の俳画は、

 『いはらき』新聞(明治四十年十一月五日付)の挿絵「無題」に、それぞれ類似するものがある。これらから

 推測するに、『三愚集』の俳画は、秋元梧樓の依頼を受けた後、さほど時を経ないうちに制作されたのではな

 いだろうか。

⑩ 大正九年七月二十八日、『三愚集』が刊行される。『三愚集』の刊行が、大正九年にまで及んだ事情につい

 ては、確たる資料を得ることができない。

2 『三愚集』の体裁、頒価、発行部数について

 『三愚集』発行元の俳画堂・島田勇吉は、画商として自社紙『東海美術』を定期的に刊行し、精力的にその経営にあたっていた(注15)。漱石も芋銭もこの画商の要請により作品を時々制作している。特に芋銭の場合、俳画堂とは単なる画家と画商という関係を超えたもので、それは、芋銭没後に著わされた『河童の影法師』によっても窺い知ることができる(注16)。

 さて、『東海美術』は、入手不可能な文献で、おそらくこれを所蔵する個人及び図書館等はないだろう。しかし、幸いにも『三愚集』刊行当時の巻次を纏めて購入するする機会に恵まれた。これらによって、『三愚集』の発行部数及び頒価等が幾分なりとも明らかにすることができた。

 『三愚集』の広告は、下に図版として示した『東海美術』第六巻第四号(注17)から第八巻第二号(注18)までの、約二年間にわたって掲載されている。それらによると…

① 体裁について

 「畫帖仕立、三方金、表紙生麻、縦七寸三分、横九寸五分、厚一寸八分、紙質鳥の子、木版数度摺、装幀優雅

鮮麗、頗美本」とあり、これはこの後の広告記事にても変わらない。『三愚集』は、発行部数総て同じ体裁にて発行されたことになる。但し、内部の額貼りの用紙には数種類認められる。

② 頒価について

 最初の広告は「豫約期限中特價拾五圓」とあるが、『東海美術』第七巻第一号(注19)以降からは、「拾貳円五拾錢」と幾分安価になっている。これは、残部を捌くための手段かも知れない。いずれにしても、『三愚集』は、この二種の価格によって頒けられた。

③ 発行部数について

 最初の広告には「壱千部限」、次号の『東海美術』(以下、巻次のみ)第六巻第五号(注20)から百部限、第七巻第三号(注21)から三十部限、第八巻第一号(注22)から十部限、この広告は次号の第八巻第二号で終了している。巻次を経るにつれてその部数が減少しているのは、残部の表示と思われる。百部を捌くために、約一年半を要したようだ。このことと本の体裁を併せて考えると、当初の広告に記す「一千部限」は、当事者の願望に終わり、実際の発行部数は、百部と推測される。

 ただ、最初の広告に見られるように、秋元梧樓や俳画堂の『三愚集』刊行にかけるものには相当のものがあったようだ。それを明かすような広告の一文が見られる。

 「此書は、漱石先生在世中、自ら三愚集と題し梓に上す計畫ありしも病痾の爲果さず遂に不幸長逝せられぬ先生自序に記されたる如く句を作りて後世に殘せる一茶と其句を畫にする芋錢と而して頼まれて止むを得ず一茶の句を寫せる先生の自筆とは蓋し古今の珍書にして之に依りて三大愚家の風格を窺ひ超脱的愚境を味得して逍遙游を試みん事は亦齷齪界に於る一清樂事たるべきを信じ、弊堂茲に微力を省みず、先生の意志を繼ぎ、書畫併せて五十七枚、高尚優雅なる木版色摺の畫帖仕立となし、敢へて大方諸賢の几邊に薦めんとす、切に清鑑を給へ」

『東海美術』第六巻第四号

      『三愚集』広告 『東海美術』第六巻第四号 *画面をクリックすると大きな図版になります。図版無断転載を禁ず

 

3 『三愚集』の俳句について

 『三愚集』の二十七の句について、漱石書のものと、一茶の元の句(注23)とを比較してみる。次に、それぞれの句について、漱石書の句、一茶の元の句(典拠、制作年、季節)の順に記載する。このうち、第十六句については、『一茶全集』の中から該当する句を見いだせなかったので、漱石書の句に相当すると思われるものを、( )を付して記した。

 あら玉の年立帰る虱かな

 あら玉のとし立ちかへる虱哉

  文化句帖 文化五年 新年

 きり/\す今日や生れんすみれさく

 蛬けふや生れん菫さく

  七番日記 文化七年 春

 春雨の大欠伸する美人かな

 春雨の大欠する美人哉

  七番日記 文化八年 春

 瘠蛙まけるな一茶是にあり

 瘠蛙まけるな一茶是に有

  七番日記 文化七年 春

 なんのその西方よりもさくら花

 ナンノソノ西方よりもさくら花

  七番日記 文化七年 春

 舞扇さるの涙のかゝるかな

 舞扇猿の涙のかゝる哉

  七番日記 文化七年 新年

 門々の下駄の泥より春たちぬ

 門/\の下駄の泥より春立ぬ

  七番日記 文化七年 新年

 深山木の芽出しもあへず喰はれけり

 深山木の芽出しもあへず喰れけり

  七番日記 文化七年 春

 笋といふたかんなの闇夜哉

 笋といふ笋のやみよかな

  七番日記 文化七年 夏

 ふや/\と餅につかるる草葉かな

 ふや/\の餅につかるヽ草葉哉

  七番日記 文化七年 春

 下総の四國廻りや閑古鳥

 下総の四國廻りやかんこ鳥

  七番日記 文化七年 夏

 生きてゐるばかりぞ吾と芥子の花

 生て居るばかりぞ我とけしの花

  七番日記 文化七年 夏

 撫子の一花さきぬ小夜きぬた

 なでしこの一花咲ぬ小夜ぎぬた

  七番日記 文化七年 秋

 如意輪も目さまし玉へ郭公

 如意輪も目覚し給へ時鳥

  七番日記 文化八年 夏

 更衣いてもの見せんと計りに

 更衣いで物見せんとばかりに

  七番日記 文化七年 夏

 下駄ころりからりきやつらが夕涼 (夏)

 (下駄からり/\夜永のやつら哉)

   (七番日記 文化十年 秋)

 *下駄ころりからり彼奴らが夕涼み

   『俳諧寺一茶』

 露の世のつゆの身ながらさりながら

 露の世は露の世ながらさりながら

  おらが春 文政二年 秋

 

 蝸牛壁をこはして遊ばせん

 蝸牛壁をこはして遊ばせん

  七番日記 文化七年 夏

 誰殿の星やら落る秋の風

 誰どのヽ星やら落る秋の風

  七番日記 文化七年 秋

 菊咲くや我にひとしき似せ隠者

 菊さくや我に等しき似せ隠者

  七番日記 文化八年 秋

 三味線で鴫を立たせる潮来かな

 三味線で鴫を立たする潮来哉

  八番日記 文政四年 秋

 明月の御覧の通り屑家かな

 明月の御覧の通り屑家也

  文化五年八月句日記 文化五年 秋

 初雪がふるとや腹の虫が鳴く

 はつ雪が降とや原の虫が鳴

  七番日記 文化七年 冬

 老木やのめる迄もと帰り花

 老木やのめる迄もとかへり花

  七番日記 文化七年 冬

 必や湯屋やすみて初時雨

 必や湯屋休みてはつ時雨

  七番日記 文化七年 冬

 大根引大根で道を教へけり

 大根引大根で道を教へけり

  七番日記 文化十一年 冬

 年花や四十九年の無駄あるき

 月花や四十九年のむだ歩き

  七番日記 文化八年 雜

 上のように、一茶の元の句と漱石書のものとには、幾分の相違が認められる。二十七の句を書くにあたり、漱石が梧樓の稿をそのまま写したとは考え難く、何らかの文献でそれらを確認の上のことと思われる(注24)。

 『三愚集』の二十七の句は、多少の前後はありものの、概ね季を追い、新年・三句、春・六句、夏・七句、秋・六句、冬・四句、雜・一句によって構成されている。

4 『三愚集』の内容について

 一茶の句と,漱石の書と、芋銭の絵で『三愚集』は成っている。しかし、その各々の頁の構成を見ても明らかなように,書と絵は互いを意識した作とは言い難く、両者をつなぐのは一茶の俳句のみである。それぞれの作品はそれぞれの一茶観・俳画観と強い個性によって制作されている。逆に言えばそれらを一まとめにしたと言うところに、『三愚集』の面白みがあるのかも知れない。

 漱石は、「余は俳画を見る度に単純な昔に返り得た様な心持がする。さうして其所に云ふべからざる一種のなつかしみを感ずる(注25)」と、自身の俳画観を述べている。

 一方、『三愚集』の刊行よりは後になるが、芋銭は一茶について、「柏原を訪ふの後妙高に登る。時に夕日峯に懸り、金色千峯に照りはえて荘厳云ふ計りなし。悵然一茶を憶ふ、彼れは偽りなき詩人なりき、痛ましき煩悩の侭に己を己に獅嚙みつかせつヽ、少しも己を離れ己を放つことを知らざりき。されば彼には己を放ちたる大自然あるのみ。是彼れの最も悲しむべき所にして、亦偽らざる所なり(注26)」と記している。

 『三愚集』の各々の作品は、このような俳画観・一茶観に裏着けられて制作されている。晩年の芋銭の作品に、『三愚集』第十七図と同主題の「露の世」と題する作品(注27)がある。深い情緒を湛え、また俳画としても非常に充実した作品でもある。

​ このように、『三愚集』は、芋銭が俳画家として、完成されてゆく軌跡を明らかにするためにも重要な文献となっている。

注記

注1 明治俳壇を窺ふ(5) 夏目漱石君 秋元虚受

 「…私は始めて高濱虚子君の紹介で夏目漱石君に會ふことを得たのは明治四十二年晩秋と思うふ。…」 『み

 つうみ』第五巻第三十・三十一合併号 みつうみ社 昭和二十五年十二月

注2 漱石日記、明治四十五年七月二十三日「流山の秋元梧樓又入らざる明治百俳家短冊帖とかを出版す序をか

 けと云つて聞かず。手紙に詩を添えてやる。」

注3 『みつうみ』第三号 茨城県南俳句連盟本部・秋元梧樓 昭和二十七年四月

注4 詳細を極める増補改訂『漱石研究年表』(荒正人 集英社 昭和五十九年)にても、『三愚集』の周辺を

 明確にすることはできない。

注5 冒頭に「明治四十五年五月のことである…」とあり、梧樓の回想はこの時点から始まる。漱石の序文は、

 明治四十五年五月に成ったが、この間には、まず二十七の句の選出➡同句の書・俳画を芋銭に依頼➡企画変更

 ➡書・序を漱石に依頼➡序を漱石に再依頼等の経緯があり、一月内にこれらを成すことは到底不可能。した

 がって、梧樓が二十七の句を選出したのは、もう少し年月を遡らなければならない。

注6 明治四十二年、長野市に、中村六郎が主となり、「一茶同好会」が組織された。同会は事業の一つとし

 て、『七番日記』(明治四十三年三月刊)等を刊行し、会員を募って頒布した。これらは、当時の紙誌上に好

 意的な内容で採り上げられ、多くの人の知るところとなった。秋元梧樓が入手した『七番日記』『俳諧寺一

 茶』も時期的に見て同会刊行のものであろう。

  また、一茶同好会賛助会員に夏目漱石の名が見えるのも興味深い。(漱石日記、明治四十二年四月二十日

 「…信州柏原の人自らいっさの郷人と號して来訪、一茶の遺稿出版の發起人に加入せよと乞ふ。諸君子の後に

 署名す…」『夏目漱石全集』第九巻 創藝社 昭和二十九年)。「一茶同好会規定」及び「一茶同好会賛助

 員」については、『俳諧寺一茶』の末尾に詳しい。 

注7 梧樓の回想の時点と、漱石の文学博士号拒否問題が同時期として扱われている。しかし、「明治四十四年

 三月八日の『東京朝日新聞』に、漱石の博士号拒否問題に関し、その経緯が詳しく報道される。」(増補改訂

 『漱石研究年表』荒正人 集英社 昭和五十九年)とあるように、拒否問題が一般化した時点からでも、梧樓

 の回想とは約一年の隔たりがある。

注8 「表紙に芭蕉を描くは、「一茶を描く」の誤り。

注9 一茶の句「春立つや愚の上に又愚にかへる」を意識したもの。また、芋銭はこの末尾に「大正二年孟春三

 月 草が餅になる日」と記した。『草が餅になる日』とは、三月三日の草餅の節供のこと。注10の論では、

 「子(誤読か?)が餅になる日」とある。

注10 次の論「三愚集について」漱石と一茶と芋銭(熊坂敦子 『国文学解釈と鑑賞』二四七 至文堂 昭和

 三十一年十二月)によれば、漱石が一茶の二十七の句を選んだとある。「…然るに漱石の撰んだ一茶の俳句

 は、滑稽というのみでは一概に律することのできぬ、自嘲や悲痛や感傷など、複雑な色合いをおびた句を撰ん

 でいる。漱石の一茶観、ひいては漱石自身の俳句観の一面がうかがはれる…」

  句を選んだのは秋元梧樓であるから、、『三愚集』の二十七の句から、「漱石の一茶観等をうかがう」には

 無理がある。また、同論では冒頭に、「最近『三愚集』の原本が管見に入った。原本というのは、秋元梧樓が

 大正九年七月に俳画堂より復刻流布したものの原本である。復刻本では、恐らく秋元梧樓の手によって、春夏

 秋冬と、俳句の季の順に整然と並べられてあるが、原本は必ずしも季を追わず、自由な排列である」と記して

 いる。この論文が書かれた時代に『三愚集』の復刻の事実はないと思う。

  更には、熊坂氏の「現代作家と三人 1漱石と一茶と芋銭」(『文藝春秋』51ー14 文藝春秋社 昭和四十

 八年九月)中にも、同様の記述が見られる。

注11 芋銭自身のデザインによるキルク製の印章。芋の葉と芋の中の丸と□で「芋銭」と読む。俳人で篆刻家の

 服部耕石(昭和初期から畊石)の作で、大正二年から使用を始める。また、『三愚集』の芋銭の俳画に捺され

 た印章「艸汁」も服部畊石の作、この印章の制作年及び使用開始時期は不明。したがって、これらの解明は、

 『三愚集』の俳画の制作年を特定するためにも有効となる。

注12 秋元梧樓の印章。「虚受」は梧樓の俳号。

注13 『ホトトギス』第十四巻第六号 ホトトギス発行所 明治四十四年二月

注14 『ホトトギス』第十三巻第八号 ホトトギス発行所 明治四十三年四月

  芋銭は、この号から、没年の昭和十三年まで同誌に作品を描き続けた。芋銭は同誌を媒介として、文学・ 

 美術に関わる多くの人々を知るところと成る。

注15 『東海美術』の創刊は、大正四年四月。月刊誌、後に不定期刊行。廃刊の時期は不明。発行者は島田勇

 吉、発行所は俳画堂。著名美術家等の作品が掲載されるなど、分権的価値は高い。

注16 『河童の影法師』芋銭先生と俳画堂 島田勇吉 俳画堂 昭和15年

  これは、俳画堂・島田勇吉宛の芋銭書簡集。大正十二年九月九日付の書簡に、『三愚集』に関わることが記

 されている。「…兼て御預りの小誌『三愚集』揮毫料もかかる場合一時御戻し致し度尚種々今後の御話も致し

 度御出で待ち候…」。関東大震災で総てを灰にした俳画堂を思いやる書簡で、『三愚集』に関わる書簡はこれ

 のみ。

注17 『東海美術』第六巻第四号 大正九年七月

注18 『東海美術』第八巻第二号 大正十一年三月

注19 『東海美術』第七巻第一号 大正十年一月

注20 『東海美術』第六巻第五号 大正九年十月

注21 『東海美術』第七巻第三号 大正十年五月

注22 『東海美術』第八巻第一号 大正十一年一月

注23 下の掲載の一茶の句を、元の句とした。

   『一茶全集』第八巻・別巻 小林一茶/信濃教育委員会編 信濃毎日新聞社 昭和五十一年〜五十四年

注24 漱石は「一茶同好会」の賛助会員でもあったので、同会が刊行した文献も参考にしたと思われる。

   注6参照。

注25 中村不折画『不折俳画』序 『夏目漱石全集』第九巻 創藝社 昭和二十九年

注26 小川芋銭作「一茶終焉の家」「妙高夕陽」『早稲田文学』二四六 早稲田文学社 大正十五年七月

注27 『芋銭子開八画冊』 大塚巧藝社 昭和十二年に収録  作品は昭和十一年制作

 

*本稿は、平成4年8月15日に、単独社から刊行された『三愚集』改題を再録したものである。

 当時、この稿を纏めるにあたり、大谷時中氏の『茨城大学五浦美術文化研究所報』所載「秋元双子樹・洒汀・梧樓ー一茶・天心・漱石の雅友としてー」の論文を参考にさせていただきました。また、『三愚集』編纂・発行人、秋元梧樓の令孫有田道子氏と単独舎主・小野倉氏に資料の提供と助言を賜りました。

 刊行から早くも25年が経過しました。ここで改めて御礼を申し上げます。 

 *図版の無断使用を禁じます。

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