​「河童の碑」(俗称)について

河童の碑

​「河童の碑」(俗称) 牛久小川家所蔵​

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 牛久沼を見下ろす高台に、芋銭の人と芸術を敬慕する人たちによって「河童の碑」(「河童の碑」は俗称であって、正式な名称については、河童の碑-正式な名称についてを参照されたい以下俗称にて記す。が建てられた。時が経つにつれ、建碑の経緯などは口伝えにより、諸々の説が入り乱れ何が真実なのか不明瞭になっている。建碑の時期についても例外でなく、ほんの10年ほど前までは、昭和26年とされていた。現在でもネット上やパンフレットの類いには、相変わらず昭和26年と記されるものが散見される。それは碑裏に彫られた池田龍一の一文「爰ニ其芸術ト其人トヲ敬慕スル者相謀リ居処草汁庵故人愛好の一角此椎林ノ中ニ小碑ヲ建テゝ記念トス 昭和二十六年十二月」の末尾にある日付に起因するようだ。

 お膝元の牛久市の公式HPにも、「雲魚亭から程近い場所に「河童の碑」は建てられています。芋銭の生前の数々の偉業を讃えるために昭和26年に芋銭の友人「池田龍一」氏が中心となって建立されました。」と記されている。ちなみに、「河童の碑」「昭和26年」で検索をすると、多くのページが表示されるので、現況を知っていただけるものと思う。

 建碑者についても、雑誌『墨』104号 平成5年10月刊行の「特別企画 河童の芋銭」では、「昭和26年、横山大観ら芋銭の人と芸術を慕う人々によって建てられた」と、全く関与しない人物名を記すものまで出る始末である。

 以前、小川家のご当主から、手つかずの大量の芋銭旧蔵資料の整理を依頼され、酷暑の中真っ黒になりながら、凡そ週一回の頻度で整理にあたった。その中には有名無名諸氏から芋銭や芋銭の家族に宛てた書簡が大量に含まれていた。今までの芋銭論は芋銭の書簡を通して展開されるのが常であったが、これらの書簡の出現によって、芋銭が他からどのようにみられていたかを全く別の視点から語ることが可能になった訳だ。これらの書簡の中には、「河童の碑」の完成にいたるまでの経緯を記したものも含まれており、建碑の詳細がはじめて詳らかになった。

 これらの書簡が発見される前迄に、「河童の碑」の完成に至る経緯の概略を記した文献(吉井忠「芋銭子河童碑由来記」『美術グラフ』15-1 昭和41年1月刊)があるにはあったのだが、どういう訳かその存在は忘れ去られてしまっていたので、牛久市の担当者にコピーを渡したのだが、何等進展はなかった。和暦が平成に変わり数年後のことである。

 かつて牛久市における市民講座「芋銭を学ぶ会」(月1回計5回、初回は平成16年6月5日)で、小川家で発見された芋銭夫人宛池田龍一の書簡を基に「河童の碑」について話をしたことがあった。その折り、前記の「芋銭子河童碑由来記」を資料として併せて配付し、除幕までの経緯を説明した。その由来記には、「芋銭芸術の深き理解者である丹波の酒造家西山泊雲氏と福島公立病院の池田龍一先生がここに登場してくるのであるが,計画半ばで西山氏は死亡、息子さんがその意志を継ぐことになる。」と記されている。河童の碑は、池田龍一なくして建立はあり得なかったが、実質献身的に動いたのは、池田の知人で画家の吉井忠であった。建碑の最大の功労者である当人の記述であるから、その内容には誤りはないものと思い、迂闊にも当該講座で引用してしまった。しかし、泊雲は、昭和19年9月に他界(建碑発案は昭和24年)しているので、河童の碑に関わることとなったのは、子息・謙三である。ここで改めて訂正をしておきたい。ただ、講座参加者の方々(地元の方々)に、正確な建碑時期(昭和27年5月25日)を伝えることができたのは、有益であったと思う。

 それでは、改めて碑建設発案から除幕までの経緯を記しておきたい。

 昭和24年4月 犬田卯(農民文学者、牛久住)により、芋銭の記念碑建設を発案(犬田は発案のみ、実際の活動は何もせず。この時点では、漠然とした「芋銭を顕彰する記念碑であって、名称は何ら定まっていなかった。)される。発起人を、横山大観、池田龍一、西山泊雲、小林巣居、犬田卯と予定する。池田龍一には、4月16日の日付で同意を求める書簡を送る(但し、碑の規模・形式・予想資金などには一切触れられていない)。

  芋銭が属していた日本美術院関係者にも同意を求める。

  横山大観  趣旨には賛同(関与せず)

  小林巣居  賛同

  斎藤隆三  いまさらということで否定的(関与せず)

  酒井三良  池田龍一から手紙を受け取るも、三ヶ月を経ても返答すらせず無視(関与せず)

  以上から、発案はされたものの、建碑に向けて動き出す気配すらなかった

 そのような時、芋銭の良き理解者であった福島の医師池田龍一が登場し、ようやく建碑に向け動き出すことになる。実際に動き出すまでの経緯は、建碑から暫く歳月を重ねた頃の吉井忠宛池田龍一書簡中に、詳しく記されている(長文のため要約)。

 建碑するとすれば、(先の事情から)大観はじめ美術院を全然除外して、西山氏と私との二人で資金を出して建碑する覚悟で始めるより他なかろうと思った。また丹波の西山氏は遠方のため一切を自分に一任という事になったので、碑の構想を立て、碑表にはカッパ図(注記:カッパ図が彫りこまれたことから、「河童の碑」と俗称されるようになる)と芋銭自筆の俳句、碑裏には碑文をと考えた。併行して碑の石を探したが、事はなかなか進展せず、そのうちに昭和24年は暮れてしまった。また、福島に住む自分では碑はできないから、地元に住む人たち(発起人として名を連ねた)に建碑の指揮を願うも、誰もが関与したくない様子なので、最終的に東京に住むあなた(洋画家・吉井忠)に代行を願うほかない。そうしないといつまでたっても碑はできない。吉井に代行を依頼して間もなく、石を探してくれたので、建碑は一挙に軌道に乗りはじめた。その時期は、25年の未だ暖かくならぬ頃だったと思う。石がみつかったので、構想は具体的にきまった。碑表の句に関し、虚子門下の高野素十に相談したところ、「五月雨や月夜に似たる沼明り」がよかろうとなったが、虚子に相談してはとの意見により、昭和25年8月23日、池田・吉井の二人が鎌倉の虚子庵を訪い、碑に刻む句の選定を問うたところ、「芋銭の句は余技だから、この程度で仕方がない」との返事であった。その後、「さみだれや」の句を芋銭自筆書簡等から集字し作成したが、虚子や他の俳人らの言を鑑み、後世「要らざることをしたものだ」との謗りを受けることのないよう、句を入れることを断念した。兎に角吉井氏の活動がなければ碑はできなかったと、重ねて謝意を表している。

 

その後の経緯は以下のとおり。

 

昭和26年12月11日付 池田龍一書簡(以下いずれも芋銭夫人宛)

 碑全体を構成するにあたり、表には河童の絵を、裏には芋銭の自筆略歴を彫りたいが、碑の大きさは縦横2メートル位あり、自筆略歴ではもたないから、さらに芋銭略歴を加えたいと文面を提示し申し入れる。

 

昭和27年1月26日付 池田龍一書簡

 「先生の碑も裏面は全部出来上り 表面の文字の部分も完了したので、これからカッパの画の部分が始まる處」と伝える。(注記:裏・表面共に文字の彫刻は、文京区の近藤石材店が手がけた。)

 碑は、最初裏面文字を彫り、次に表面の文字、最後に河童の絵を彫るという手順で進められた。裏・表とも文字は総て石屋が彫り、河童の絵のみを「八柳恭次」が手がける。なお、彫刻家で画家の中村直人は監修のみで、実際に彫刻をすることはなかった。完成も間近となった頃、それまで何ら関与せずにいた犬田卯から、華々しい除幕式をしたらどうかという話が出されたが、芋銭の芸術や人柄を考え必要ない、と自身の考えを夫人に伝えると共に、碑設置職人のため宿の手配を願いたいと書き添える。

 

昭和27年4月3日付 池田龍一書簡

 「碑は今月中旬頃出来上がる予定」とあり、小川家に対し「設置のため職人の宿の手配、碑の運び込み及び除幕式(簡単に)はいつ頃にしたらよいか、案があったら知らせていただきたい」と伺う。

 

昭和27年4月6日付 池田龍一書簡

 「碑の彫刻は今月10日頃出来上がる予定」とあり、吉井忠(注記:この書簡にて初めて「吉井忠」の名が記される)が、碑の材料入手から彫刻、更には碑の運搬までの一切について、献身的に動いたという事実が明らかになった。碑の材料は、東京の「護国寺」境内にあった根府川の石を求め、彫刻も同所で行った。したがって、碑ができあがると悪戯される恐れがあるので至急運搬しなければならない事情があった。この書簡では費用の面の記述もあり、河童の絵の彫刻だけで10万円も要した、と記されている。出来上がった碑について池田は、「他に類のない芸術的な碑ができた」と漏らしている。

 しかし、完成に至る経緯では、「本気で働いてくれたのは吉井君だけで、他の人は近くに居ながら何の役にも立たぬのであきれ返りました。」と嘆いている。

 

昭和27年5月3日

 天候の都合で、急遽東京から牛久まで碑を運ぶ。朝出発、正午到着。建碑の作業にとりかかりる。運搬及び施工は大野石材店(石材店主の大野老人は、碑の完成を見ずに急逝。息女があとを引き継ぐ)

昭和27年5月7日付 池田龍一書簡

 犬田卯から碑の盛大な除幕式の提案があり、それに対して、自身の考えを記す。「今日犬田さんから除幕式のことについて相談があったが……村民の誰が手伝ったか……牛久の名物なら牛久村民が建てるべきである。……関係者でもない人まで呼び寄せての除幕式なら……止めて欲しいし自分は行かない。……ほんとに奉仕したのは吉井君と急死した石屋の老人だけです。」 

 *1月26日付けの書簡にもあるように、芋銭の人柄を考えると、華々しい除幕式は相応しくないと池田は考えていた

 

昭和27年5月25日

 関係者のみにて、小川家への「碑の贈呈式」が挙行される。

 *今では、「河童の碑」は公のもののように思われているが、実は、牛久市の小川家の所有物である。

 

 以上が、碑の完成に至るまでの経緯である。

 話は随分遡るが、吉井氏の「芋銭子河童碑由来記」を読んだ私は、表面の河童の絵を含め更に詳しいことを知りたく、吉井氏に手紙にて尋ねた(吉井氏がお元気だった頃だから、もう20数年前のこと)。早々にお返事をいただいた。それによると・・・

 碑表の河童の絵(*文字、サインも含む)は肉筆ではなく「複製画」を基としたとあり、「三越の美術部で求めた複製画を村井写真館に持ち込み、碑相応の大きさに引き伸ばしてもらった。それを中村直人に依頼し、実際には八柳恭次が二ヶ月かけて彫り上げた。碑の石は、池袋駅近くの石屋(*大野石材店)が護国寺境内にあった根府川石を見つけてくれた。」と記されている。

 この書簡により一つ疑問が解けた。碑表をみると、「芋銭子」のサインのみで印影が彫り込まれていない。東京が未だ「東京市」と称した頃に刊行された大塚巧藝社の複製画目録をみると、碑と同じ複製画(色紙)が掲載されている。印章部分をよくみると、「无描所」という白文長方印が認められるが、実物の印影とは異なり、二重の線によって囲まれている。これは、実物と巧芸画の判別を容易にするための手段であるので、そのまま碑に彫り込むのは憚られたのだろう。

 碑はその後、無断で拓本をとられたりするなど、手荒い扱いを繰り返し受けている。時には、直接碑に墨を掛けて拓本をとるという愚かな行為さえあった。そのため、その為碑は汚れ、十数年もの間墨の跡が残るという、実に悲しむべき出来事があった。昭和40年2月21日付『東京新聞』には、「小川芋銭のカッパの碑に、最近落書きしたり、キズつけたりする不心得の観光客がおり、ありし日の芋銭を慕う地元住民を怒らせている。……特にひどいのは、碑に刻んだカッパの絵、かんじんなサラがキズだらけ、地元民は「カッパの象徴がなくなる」と心配。近く立て札を立てて訴えるという。」と、その惨状を伝えている。

 今では、牛久市の観光資源となり、牛久市の文化財にも指定されその名が知られるようになったが、先人たちが何故この碑を建てたのかを思いやり、優しい心を以て接して欲しいものである。

 最後になったが、碑表に彫られた「誰識古人畫龍心」については、続:河童の碑についてを御覧下さい。

 また、住井すえの芋銭論 その3 及び 河童の碑-正式な名称について も併せてご覧ください。

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