住井すゑの芋銭論 その1

その2 その3 その4 は、別ページに記した。

 まず冒頭で断っておくが、芋銭と住井すゑには、親交や交流の事実はない。

 『橋のない川』の作者として知られる住井すゑは、夫・犬田卯が芋銭と交流があったことや、芋銭旧居近くに住んでいたこともあり、しばしば芋銭について語っている。それらは美術雑誌等にも掲載されているのだが、誤りや有り得ない作り話などが散見され、後の芋銭論に混乱をもたらす要因となることが危惧される。しかし、同氏の芋銭論を読み、「あの住井すゑが語ることだから間違いはないだろう」と、疑うこともなく受け入れる人たちがかなりいるのではないだろうか。住井すゑ信奉者に至っては、なおのことである。

 それでは、どういうところが危惧されるのか検証してみる。

 朱文字は、住井すゑの談及びその掲載文献を示す。

 

1 芋銭が自宅に寄り付かず、水戸で派手に芸者遊びばかりしていたという珍説について

 ①「橋のない川」の作家住井すゑさん よきとなり人・芋銭を語る

 しかし先生は、体も小さく、丈夫でなかったので百姓仕事に耐えられなくて、水戸へ行ってしまったんです。・・・こちらで結婚(二十八歳)してからも、奥さんに百姓仕事をさせて、自分は水戸で遊んでいるんですよ。芸者衆にも大変もてたそうです。・・・それに非常にりこうで、気っぷもよかったから。芸者衆のハンカチに絵を描いてやったりして、それは人気があったそうです。・・・(『墨』104号 1993, 9・10月号 芸術新聞社 154頁)

 ②「芋銭先生!!」“橋のない川”の作者住井すゑインタビュー

 そのころ小川先生はここにいなくてね。ほとんど水戸に住んでて、うちには近寄らない。一年に二、三回しか帰ってこないような状況で・・・(『美術の窓』第12巻第5号 生活の友社 平成5年5月 72頁)

 ③(芋銭は)水戸で芸者遊びばっかりしてたの。・・・水戸にいらっしゃるころは芸者にもててね。芸者に絵を描いてやる。お金が入ったらワッと花代を出す。片っぱしからお金を使っていたのね。家は地主ですから家に金を送る必要がないから、画料が入ったら芸者に配っていた。だから水戸では大変もてたんですよ。(掲載文献は②に同じ。74頁)

 上記の総ては、住井すゑの作り話であって、全く事実に反する。芋銭の父賢勝の日記には、芋銭が何日どこへ出かけたということまで、事細かに記されている。この日記を見れば、「ほとんど水戸に住んでて、うちには近寄らない。一年に二、三回しか帰ってこない」などは、天地がひっくり返っても有り得ないことだ。また、「それに非常にりこうで」とも言っている。たくさんの芋銭論を読んだが、芋銭を「りこう」と評したのは、住井すゑ以外いない。尊敬する人物に対して、まして自分より歳上の人に対して、「りこう」という言葉を使用することの適不適も解せないのだろうか。この辺りに、住井すゑの物書きとしての語句に対する感性や、人間性が垣間見える。

 さて、水戸時代の芋銭が、酒席でどのような振る舞いをしていたかを窺える一文がある。

 「先生は、晩年もさうであったが、若い頃から、すべて出しゃばることと御節介が嫌ひで、人なかに出ても、何もかも承知しながら、しかしおのづからにして沈黙を守るといふ風であった。自発的にものを言ったり、指図をしたりすることは凡そ不得手で、人を誘ひ出すことなどはてんから出来なかったが、人に誘はれればいつも諾々として跡についてゆく風であった。・・・料亭の卓につくと、先生はさゝれるまゝに杯をふくんでゐた。座に侍った小きんといふ妓は、ちびりちびり杯をなめてゐる先生に、程よく酌をしながら、さかんに秋蘋と談笑してゐる、小きんは、秋蘋が変なお客をつれて来たものだと心に思ひながら、若いくせに妙にぢぢむさい、けれども変に魅力のこもった先生の濃い鬚面を、ちらっちらっと偸み見してゐた。しばらくして、何かの拍子に、秋蘋が先生に話しかけると、先生は静かに答へて笑った。これを見た小きんは、「まあ、びっくりした。こちら(先生)は啞かとばかり思ってたのに!」といつて、一同大笑いしたといふ。先生三十四歳頃の話である。」(九 水戸行き『画聖芋銭』津川公治 宮越太陽堂 昭和18年)

 『画聖芋銭』の著者・津川公治は、かつて芋銭が夥しい数の挿絵を描いた、地元紙『いはらき』新聞の記者で学芸部に所属していた。津川の個人雑誌『桃源』や、単行本『ある日のミレエ』の装丁などは芋銭の筆になるものであるし、手紙のやり取りは元より、牛久沼にて共に舟遊びをするなど、芋銭とは親交を重ねていた人物である。したがって、上記の酒席における芋銭の様子を記した一文は、信頼に足るもものと解してよいだろう。これらからは住井すゑの論とは、正反対の芋銭像が見えてくる。豊かな芋銭芸術を真っ先に認めた『いはらき』新聞主筆の佐藤秋蘋の論からも、同様の芋銭像が見えてくる。また、芋銭をよく知る斎藤隆三が著した初の芋銭伝『大痴芋銭』(創元社 昭和16年)の中にも、「それも文字通り唯飲むのであって、酒友と料亭に会合したとて、大きな声一つ出すものでなければ冗談をいふでもなく、尚更に女にからかふの色を漁るの段でない、・・・」と、同内容の一文が記されている。

 この他、地元における芋銭研究家の論中に、芋銭がカネをばら撒いて派手な芸者遊びを繰り広げていたなどというものを、かつて読んだことがない。

 一方の芋銭もまた、「花街」に足を向けたことは一度たりともない、と自身の書簡中に記している。

 時には酒に酔って、席画の類を描いたこともあったろうが、以上から、どちらの論が信頼に足るものか、記すまでもないだろう。

 住井すゑが牛久に転居するのは、昭和10年の事で、その暮らしは、地元(牛久)の住民とは隔絶したものだった。また、水戸時代の芋銭を知る人物に接する機会もなかった。したがって、水戸時代の芋銭の情報は、どこからも得ることができなかったわけだ。だから、自身の尺度と想像を以て、語る以外なかったわけである。本来なら、分からないとすれば済むところを、それができなかったのが、住井すゑの所以たるところである。

 私はたまたま小川家の資料を整理していた時、芋銭の父・賢勝の日記類や家計の収支帳を見る機会に恵まれたが、芋銭が得た画料は、小川家の収支帳に記されていた。したがって、「だから水戸では大変もてたんですよ。」、「お金が入ったらワッと花代を出す。片っぱしからお金を使っていたのね。」、「家は地主ですから家に金を送る必要がないから、画料が入ったら芸者に配っていた。」といった話は、全く事実に反する。

 芋銭が、家を省みず、水戸で金をバラ撒いて派手に芸者遊びをしていたというのは、住井すゑの作り話であり、芋銭像を歪める以外の何物でもない。こういういい加減さに、私は怒りさえ覚える。

 

2 近衛家別邸の杉戸絵について

 ①「橋のない川」の作家住井すゑさん よきとなり人・芋銭を語る

 これも戦時中の話ですが、近衛文麿が、東京の荻窪に別邸を建てた時、四枚の見事な杉戸を持ち込んで、大観さんに頼んだそうです。そうしたら、自分ではなく、『小川さんでなければこれは描けない』と言ってこの杉戸を回してきたのです。(掲載文献は、1の①に同じ 155頁)

 ②「芋銭先生!!」“橋のない川”の作者住井すゑインタビュー

 戦中に荻窪に近衛邸をつくったでしょ。荻窪の郊外にあったから荻外荘(テキガイ)というんですけど、その新築した部屋の杉の仕切り戸四枚を大観さんが近衛さんから頼まれたんですよ。そうしたら「この絵はわしよりも小川さんが適任だから」といって、その襖を回してきたの。(掲載文献は、1の②に同じ 77頁)

 杉並区のホームページによると、「荻外荘」の名で知られる邸宅は、昭和2年に東京帝国大学教授・入沢達吉の荻窪別邸として建築されたものとあり、当時の名称は「楓荻荘」。昭和12年、近衛文麿がそれを譲り受け、その後に「荻外荘」と改められた、とある。芋銭が杉戸絵を手がけた近衛家別邸名称は「山儀堂」で、その所在地は、昭和11年10月31日付の芋銭宛酒井三良書簡によれば、豊島区目白町三丁目(筆者注:現下落合2-19)と記されている。昭和11年11月1日、芋銭は近衛家別邸の杉戸絵を描き終え、同日付で、近衛家別邸宛電報を送っている。芋銭は、翌2日、杉戸の積み込みを確認の後、所用で牛久へ戻る。その翌日の3日、酒井三良は、杉戸絵を運ぶ車に同乗し、目白町の近衛家別邸への作品の収まり具合を確認し、芋銭に知らせている。「荻外荘」が近衛家所有になった時期と、芋銭が杉戸絵を制作した時期に相違があるから、これのみを取り上げても、芋銭が「荻外荘」に関わったという事実はない。

 大観が芋銭を適任として推したということを裏付ける資料を知らないから、触れないでおくが、これを除いた上記の住井すゑの言葉は全て誤りである。

 

3 芋銭を知るには「老荘哲学を学べ」ということについて

  そうなんですよ。人間が手をつけたら、それはもう人為になるんですね。法則じゃない。人為と法則を比べたら法則のほうが絶対性を持ってますからね。老荘は絶対的な法則を表現しているわけです。老荘の哲学をひと通りやらないと芋銭は理解できないんですね。(掲載文献は、1の②に同じ。72頁)

 河童の芋銭の集大成ともいうべき『河童百図』は、芋銭が病に倒れた翌月、即ち昭和13年2月に、俳画堂から刊行された。芋銭が伏せていた部屋に書棚があり、『河童百図』は、芋銭から表紙が見えるように、そこに立てかけてあったという。初版を出版した俳画堂島田勇吉は戦前に他界、その子息・島田源太郎が、戦後知人の勧めで再販を試みたが、実現に至らず、さらに時を経た昭和30年に、龍星閣の澤田を相知ることとなり復刻版出版を一任、翌年出版の運びとなった。

 住井すゑの夫・犬田卯はその解題を頼まれたが、『河童百図』の解題は一朝一夕にはできない。そのため、犬田は、「河童の碑」(通称)建立の実質的功労者、福島の医師・池田龍一に助け舟を出したが、あっさり断られた。そうするうち犬田は病に伏せたため、住井すゑがその後を引き継ぐことになった。

 住井すゑは、芋銭の文字解読に手を焼いていたらしい。例を2〜3あげると、冒頭の芋銭自序の末尾について、「沼凍解る日」を、「沼凍ほる日」と誤読している。また、末尾の「河童百図」題詞解読について」では、「二二図 冷水に煎餅こねしまでわかりました。『芋銭子文翰全集』では、こねちよろかなつ・・・と解されていますが、こねちよろかなんて何のことやら全くのナンセンスです。・・・この句、或は芭蕉門下の凡兆あたりではないかと思うのですが・・・第二二図、 冷水に煎餅こねして己がなつ、と解読しました」とある。

 この句は、凡兆ではなく三浦樗良の作で、「冷水に煎餅二枚ちよらかなつ(樗良が夏)」と解読すべきもである。その他の百図の画賛解読にしても、複雑な文字に関しては、先行文献(『芋銭子文翰全集』)をそのまま写している箇所がいくつも見られる。その恩恵に浴しながら、「全くのナンセンス」はないだろう。

 さて、『河童百図』百点のうち、『荘子』を典拠とする作品は、12点に及ぶ。住井すゑが典拠を『荘子』と編註したのは、そのうちの僅かに2点に過ぎない。

 3の項目冒頭に記したように、住井すゑは「人間が手をつけたら、それはもう人為になるんですね。法則じゃない。人為と法則を比べたら法則のほうが絶対性を持ってますからね。老荘は絶対的な法則を表現しているわけです。」と言っている。「河童百図」第十四図に「海坊主との問答」がある。その典拠は『荘子』秋水篇である。

 住井すゑは、この作品の画賛を「牛馬四足 是を天といふ 馬首を落し牛鼻を穿つ 是を人といふ」と、解読している。ここの部分は、「天」「人」というものを説く重要な箇所である。今、「人」(人為)というものについて目を向けると、「馬首を落し」ではなく、「馬首を落(まと)ひ」と読み、「馬の首に手綱をつける」と解釈しなければならない。「馬首を落し」、つまり馬を殺してしまったのでは、人為も何もあったものではない。画賛をよく見ると「し」ではなく、「ひ」と書いてあるのがわかるだろう。芋銭は、誤った解釈はしていない。編註する側が単純に分からなかっただけの話である。

 「人間が手をつけたら、それはもう人為になるんですね。」と言いながら、この解釈しかできないのだから、どうにもならない。「老荘の哲学をひと通りやらないと芋銭は理解できないんですね。」と言いつつ、この程度で芋銭を理解できるものだろうか。しかも、この部分の典拠は「秋水篇」である。芋銭は「秋水篇」を典拠とする作品を多く制作している。だから、芋銭を知るために『荘子』を紐解く場合、必然的に「秋水篇」からということになる。

 「河童百図」第九十四図「大瓜船」は、これも『荘子』が出典で、しかも「逍遥遊篇」である。「荘子」はここで「無用」の「用」、即ち「真の有用」を説いている。「逍遥遊篇」は「内篇」に収められている。「内篇」に収録のものは、「荘子」の思想を最もよく伝えるものであるから、芋銭を語る場合、避けて通ることのできない必読の篇である。ちなみに、芋銭の用いた印の中に「無用」というものがある。ところが、住井すゑは、「兼子ー大瓢中で眠る仙人。芋銭先生に「瓢中夢」の作あり」と編註しているだけだから、よもや『荘子』が絡んでいるとは、「瓢中夢」ならぬ「夢」にも思わなかったのだろう。

 「河童百図」第十図「大鵬」の画賛は、「北冥に河童あり化して鳥となる」で始まる。一方「逍遥遊篇」の書き出しは、「北冥に魚あり その名を鯤となす・・・化して鳥と為なるや・・・」だから、「老荘の哲学をひと通りやらないと芋銭は理解できないんですね。」と、常々言っているのであれば、一見して『荘子』が背景にあることなど、他愛もなく解せる筈である。ところが別の編註が付けられているのだから、『荘子』をほとんど解していないと評されても仕方あるまい。同例は他にもあるが、ここでは省略しておく。

 「河童百図」の中には、実に巧みに『荘子』を取り込んだ作品があるので、うっかりすると知らずに過ぎてしまう。

 かつて「小川芋銭河童百図展」を担当したとき、百図の全図に解説を加えるため悪戦苦闘したが、芋銭を理解しようとすると、どれほどの書籍を読めば良いのか先が見えず、毎日溜息の連続であったことを思い出す。

 住井すゑは、ことあるごとに、芋銭を語るにはまず「老荘哲学」を学べと言っていた。では、住井の芋銭論中、具体的にどこにどのように「老荘哲学」が反映されているのかというと、どこを探してもそのような記述はない。おそらく、「老荘哲学」に関しては、『河童百図』編註が証明するように、さほどの知識を有していなかったと私は考える。

 

          *参照  住井すゑの芋銭論 その2  住井すゑの芋銭論 その3

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