住井すゑの芋銭論 その3

冒頭の朱字は、住井すゑの談話及びその掲載文献を表す。

「蛇足」解題にかえて

もしかしたら、私たちー亡夫犬田卯と筆者住井ーは要らぬことをしたのではなかろうか

もしかしたら、皆様に大迷惑をおかけしたのではなかろうか?”

昭和二十七年五月、碑の除幕式が終わった後も、悔に似た思いに私は悩みました。碑とは、現在、通称になっている“河童の碑”です。それというのは建碑の真意が、どなたさまにも通じないような空しさを、どうすることもできなかったからです。・・・ところで“河童の碑は誰が建てたのでしょうか。碑の裏にも誌されていませんが・・・”と不審そうに訊く方もあります。そんな時“芋銭先生を敬慕される方々の善意によってです。”と私は答えることにしています。又、事実、芋銭先生とは親友でもあれば、深い縁戚関係である丹波竹田の西山泊雲(筆者注:泊雲は終戦前に物故、子息謙三の誤り。住井はそれを知らない)氏をはじめ、福島の医家池田龍一氏、名古屋の日本陶器社長飯野逸平氏には、建碑費用のほとんどを寄付していただきました。それにも拘らず、芋銭先生の未亡人、こう夫人はおっしゃって下さいました。“せっかく奔走して下さったんですから、碑の裏に、ぜひお二人(私たち夫婦)の名前を刻んでもらいましょう。”私は恐縮しながら、“碑の裏に、誰の名前も刻まないところに、碑を建てる意味があるんです。もし誰かの名前ーたといその方が社会的に有名でも、もし刻んだとすれば、芋銭先生の芸術を傷つけることになりましょうから・・・”と申し上げました。これも言ってみれば私のわがままなのですが、未亡人は“なるほど”と受け入れて下さいました。(『芋銭子名作集芋銭子作品撰集』犬田卯編著改定・復刻 別冊 単独舎 1982年)

 正直のところ、この一文を読んで仰天した。河童の碑に関しては、すでに種々資料を当たっており、大筋どのような経緯で建立除幕までに至ったか、芋銭の良き理解者・池田龍一の書簡によって、少しばかり知識があったからである。

 本気で働いて呉れたのは吉井君だけで、他の人々は近くに居ながら何の役にも立たぬのであきれ返りました。・・・吉井君がゐなかったら碑は出来なかったと思ふてをります。(芋銭夫人宛池田龍一書簡 昭和27年4月6日付)

 今日犬田さんから除幕式のことに就て相談が御座いましたが、私の心持と大変異なり、又、碑を建てた趣旨とも合はぬ様に考へます・・・何か理由をつけて村の有象無象や犬田さんの売名的態度を封じて、御宅の迷惑にならぬ様にし度い(筆者注:関係者のみの簡素な除幕式)だけなのです。・・・ほんとに奉仕したのは吉井君と石屋の老人だけです。(芋銭夫人宛池田龍一書簡 昭和27年5月8日付)

 犬田卯は、芋銭記念碑の建設発案(「河童の碑」ではなく、漠然とした「芋銭記念碑」。したがって、「河童の碑」の発案を犬た卯とするのは間違い)のみで、以後完成まではごく近隣に住まいながら、「他の人々は近くに居ながら何の役にも立たぬのであきれ返りました」と、池田龍一が嘆くように関与していないのだから、当然、その妻・住井すゑが建碑に奔走したことなどはありえない。これを実証する書簡が存在する。

 昭和39年7月3日付吉井忠宛池田龍一書簡によると、書き始めに「河童の碑に就ての記録が見つかりました」とあり、「その年(25年)の12月上旬、牛久で、あなた(筆者注:吉井忠のこと)、私、巣居(筆者注:小林巣居人)、中村(筆者注:中村直人)が碑の位置の選定をし」とあるように、建碑場所選定の時さえも、犬田卯はすぐそばに住まいながらも、立会いもしない。勿論、住井すゑがそこにいるはずもない。また、同書簡には、「犬田氏は口火を切っただけで何もせず」と明記されている。

 なのに、“もしかしたら、私たちー亡夫犬田卯と筆者住井ーは要らぬことをしたのではなかろうか”とか、“もしかしたら、皆様に大迷惑をおかけしたのではなかろうか?”など、さも自分たちが建碑したかのような発想は、どこから生まれてくるのだろうか。更に不快に思うのは、建碑のため献身的に奔走した人物(池田龍一を多額の寄付者とのみ記し、材料の石探しから建碑まで奔走し続けた吉井忠には全く触れず)を、この一文から意図的に除外していることだ。「河童の碑について」「続・河童の碑について」で記したように、池田龍一と吉井忠がいなかったら、「河童の碑」は絶対に建立されることはなかった。そういう事実を踏まえると、住井すゑの言には、卑しいものを感ぜずにはいられない。特に、冒頭の一文中の「私たちー亡夫犬田卯と筆者住井ーは」で、「亡夫犬田卯と筆者住井」と、また同文後半の「ぜひお二人(私たち夫婦)」でも、わざわざ「私たち夫婦」と特記するあたり、嫌悪感すら覚える。

 実際に建碑に奔走した人たちを後方にしてまで、自分たち夫婦の功績とする冒頭の一文は、実に醜い

 ところで、碑が完成間近になると、どうしたことか、今まで関与していなかった犬田卯が出てきて、大々的な除幕式をと言い出してくるそのような売名行為に奔る犬田を制し、芋銭の人柄に相応しい除幕式のあり方を説いたのは池田龍一である。加えれば、「碑裏に建碑関係者の名を記すことは、芋銭という人及び芸術を考えると要らざること」と主張したのも、池田龍一である。これを裏付ける書簡が残っている。住井すゑが言うところの「碑の裏に、誰の名前も刻まないところに、碑を建てる意味があるんです」は、単なる池田龍一の持論の受け売りである。

 冒頭に、「建碑の真意が、どなたさまにも通じないような空しさ」とあるが、「建碑の真意」が「どなたさまにも通じない」のではなく、通じないのは、自分たち夫婦(犬田卯、住井すゑ)であることに気づかないことが滑稽である。加えて、「建碑の真意がどなたさまにも通じないような空しさ」などと、人を見下すような言は慎しむべきだ。

 除幕式及び小川家への碑の贈呈式は、池田の考えに沿って極めて質素に挙行された。

 それにしても、虚偽をここまで平然と並べたてるとは・・・、呆れ果てて、開いた口が塞がらない。

 住井すゑとは、一体どういう人物なのだろうか。その人格が疑われても、致し方あるまい。

 「住井すゑの芋銭論 その1〜3」に記したように、どうしてこのような偽りの論が、住井すゑという人物から、次から次へと生まれ出るのか、私には全く理解できない。「高齢だから(芋銭論その3の時は80歳)」と弁護する人がいるかもしれないが、それは誤りだ。記憶が曖昧なことは、語るべきではない。まして、作り話は更に慎むべきだ。

 住井すゑの作品中には、戦争に協力し戦争を賛美するものが多く存在することは、既に知られている。これらについてどう考えるかと問われたとき、住井は、「ほほほ・・・。何書いたか、みんな忘れましたね」と答えたという。

 「住井すゑの芋銭論 その1〜3」までを書き終えたとき、私は、真っ先にこの言を思い出した。そして、もし、これらの芋銭論の疑義を問うたとき、「ほほほ・・・。何言ったか、みんな忘れましたね」と答えるだろうと推測した。

 芋銭論は、資料を基としてなされるべきで、そのために、先人は我々に貴重な資料を残してくれている。それらに敬意を表しつつ、資料の分析にあたれば誤らずに済む。

 「住井すゑの芋銭論 その1〜3」までに記した有り得ない事柄は、削ぎ落としてゆかなければならない。

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