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芋銭はいつ誰と牛久へ移住したか
芋銭伝記に寄れば、芋銭は明治4年の廃藩置県に際し、旧藩地(茨城県牛久市)に移住し、小川家は農業を営むこととなったとある。それでは、芋銭はいつ誰と牛久へ向かったのだろうか。これを裏付ける明確な資料はない。
ところで、小川有三編『小川芋銭』(八重洲美術展 昭和48年)の巻頭に、「小金原野馬」という作品が掲載されている。作品の全容は当該画集を参照されたい。いま、この作品中の画賛部を次に掲げてみる。
余幼時好馬 明治四年秌 従伯父 過北総小金原 輿中看野馬群 欣抃不惜 當時印象 永在眼中 不能忘
六十三翁 芋銭子
この画賛からいくつかの事が明瞭となった。
1 芋銭は幼少の時馬が好きであったこと。
2 明治4年、廃藩置県に際し、「伯父」に連れられて牛久へ向かったこと。その時期は「秋」であること。
3 芋銭は、「輿」に乗って牛久に向かったこと。
4 北総小金原(今の常磐線柏駅近辺)にて、(馬が好きであった芋銭)野馬の群を見、手を打って喜んだこと。
一方、芋銭の「河童の話その他」という一文が、美術雑誌『塔影』14-1(塔影社 昭和13年1月)に掲載されている。それには、「私の祖父は江戸の留守居だった。父の代になつて廢藩置県となり、山口藩の江戸詰の侍達のために牛久に長屋が出來て、明治四年に私は父に連れられて初めて牛久に来た。今でも覺えているが、今の柏驛の近くに小金ケ原という牧場があつて、昔紅栗毛と云ふ名馬を出した處で、當時馬好きの私は駕を止めて見た事があつた。」と記されている。
双方を比較すると、前者では「明治四年秋従伯父」と、後者では「明治四年に私は父に連れられて」とあり、その時期は明記されてない。表題を考えるとき、後者の『塔影』の一文の末尾には(談話要旨)との付記があるから、その辺りを斟酌しなければならないだろう。これは、文面に誤りがあれば、その責は同誌に帰するいうことである。
となれば、芋銭の直筆である、「明治四年秋従伯父」を採らざるを得ない。
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