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住井すゑの芋銭論 その2

朱字は、住井すゑの談話及びその掲載文献を表す。

1 芋銭があまり家にいなかったという理由と、その家族評について

「芋銭先生!!」“橋のない川”の作者住井すゑインタビュー

「あまり家にいなかった芋銭」

 お孫さんが小さいころ牛久に用があるときについていくわけです。昔は道が泥んこだったでしょ。先生があの小さい体にその孫をおぶってね。そういうことをやらせないようにお嫁さんが気をつかえばいいのに、そんなことは全く気配りする人じゃなかったですね。長男が戦死したでしょ。その長男の嫁ですよ。芋銭先生の奥さんは早く死んじゃったんですか(黒字は記者の質問)。いえ長生きしましたよ。八十まで。そんなに気をつかわなかったですね。先生のこと大事にしたけど、先生の仕事がどんなに価値があるものなのかということはわからなかったのね。牛久の生まれで大工さんの娘なの。この人(筆者注:長男修一)も人がいいばかりで、それほど気を使う方じゃなかったね。・・・ほかの家族は金銭的な情というのはなかった。地主根性でしたね。だから、先生は家にいたくなかったんですよ。(『美術の窓』第12巻第5号 生活の友社 平成5年5月 75頁)

 驚くことに、上記の一文は、『橋のない川』と同一の作者のものである。『橋のない川』で人間の尊厳を謳う一方、上記の文章には、芋銭の家族を蔑んだり、人格を傷つける言葉が充満している。挙句、事実とは全く乖離する「だから、先生は家にいたくなかったんですよ。」に至れば・・・言葉を失う。

 私は、この一文を読んで、住井すゑという人物に対して益々疑義を覚えるようになった。というのは、この一文からは、人に対する思いやりが全く感じられないのだ。そればかりか、小川家へ土足で踏み込み、あれこれ論い芋銭の家族を後世まで辱めることに、一体どのような意義があるというのだろうか。そして、それらが芋銭論に役に立つとでも思ったのだろうか。芋銭を語る前に、芋銭の書簡集だけでも目を通していれば、このような愚にもつかぬ一文は生まれなかった。

 それから「こう夫人」のことだが、私は、住井すゑとは全く考えを異にする。「牛久の生まれで大工さんの娘なの」というが、これは直前の文から連続しているので、「大工の娘だから芋銭の仕事の価値などわからない」と言っていると考えられる。こういうことこそ「差別発言」だと私は思う。

 「こう夫人」は、芋銭の仕事の価値を理解していたと考えるのが正しい。だから、芋銭没後、芋銭旧蔵資料群保存のための蔵を建て、それらの散逸を防いだ。その功績があったからこそ、私たちは今その恩恵に浴し、大量の芋銭旧蔵資料を手にすることが可能になっている。芋銭研究において、これほど有難いことはない。

 

2 観音経を誦する芋銭の声が、住井宅まで朗々と響いてくるということについて

 ①「芋銭先生と老子」

 さて、そのころ、先生は毎朝画室の廊下に、沼向きに正座されて、十句観音経を唱えられた。それは文字通りの朗誦で、畑越しに、農家の垣根越しに、お声は朗々とひびいてくる。(アサヒグラフ別冊美術特集小川芋銭 昭和62年 朝日新聞社)

 「毎朝朗々と唱える芋銭の観音経」

 毎朝、画室に座って観音経を上げるんですよ。それがうちまで聞こえるの。朗々とした声でね。・・・垣根越しに先生が座っている後ろ姿が見えるんですよ。声が聞こえてくると、うちの裏窓を開けて先生の姿を見てましたよ。ちゃんと正座して、毎朝、観音経を上げられるんですよ。雪の降る寒い朝も、雨降る朝も、どんな朝でも廊下に座って。三六五日、一日も欠かされない。・・・その声が畑越しに朗々と響いてくるんですよ。・・・その松の枝ぶりを見ながら観音経をやっていたんですね。(掲載文献は、1に同じ。76頁)

 まず、文章の矛盾点を指摘しておく。

 芋銭が座っている場所について、①では、「毎朝画室の廊下に」とあり、②の冒頭では「毎朝、画室に座って」とある。通常「画室に座って」と言えば、「部屋内に座っている」と解すべきで、「廊下に座っている」とするには無理がある。しかし、同文の後半になると、「どんな朝でも廊下に座って」と変っている。向いている方向に関しては、①では「沼向き(毎朝)」、②では「後ろ姿(毎朝)」とあり、これまた一定しない。また、②の末尾に至ると、「その松(河童松)の枝ぶりを見ながら」とある。河童松は、後ろ姿で観音経を誦している芋銭の後方左側にあったから、座る方向を変えない限り視界には入らない。にもかかわらず、「その松の枝ぶりを見ながら観音経をやっていたんですね」とはどうしたことだろう。住井すゑの芋銭論の信憑性は、益々遠のくばかりである。

 住井すゑが、牛久の城中に移転したのは、昭和10年のことである。芋銭は、昭和10年9月22日、それまで長逗留していた銚子海鹿島から引き上げて牛久の自宅に帰った。牛久には1ヶ月ほど居り、翌月の23日には、文村横須賀(現利根町)の弓削家に移り、以後約2年間同所に留まる。牛久に戻るのは、昭和12年9月21日のことである。しかし、落ち着く間もなく、『河童百図』及び『芋銭子開八画冊』刊行準備。11月開催の個展「古稀記念新作画展」の作品制作、12月には、取手にて古稀記念祝賀会、長男修一出征、等々多忙を極めた。年が改まるとまた体調不良で悩まされる。その年の1月末には発病し右半身不随となる。

 住井すゑが牛久に移住してから後と、芋銭の動向とを勘案すると、芋銭の姿を見ることのできたのは、昭和12年9月下旬以降から、翌年1月下旬までの4ヶ月程度である。したがって、芋銭を「三六五日」見る機会は、住井すゑにはない。加えて、芋銭はこれだけ多忙を極めており、家を空ける日も頻々としてあったのだから、実見する日となれば更に少なくなる。まして、会話を交わす日となれば、ほとんど無いに等しい。

 にもかかわらず、「毎朝、観音経を上げられるんですよ。雪の降る寒い朝も、雨降る朝も、どんな朝でも廊下に座って。三六五日、一日も欠かされない。」とは、一体どういうことだろう。部屋の中の、しかも後ろ姿の芋銭の声が、「畑越しに朗々と響いてくるんですよ」というが、後ろ向きの声が、反対側の80m余り先まで「朗々と響く」ものだろうか。

 芋銭の居所「雲魚亭」から、「住井宅」までの距離は、83〜85mほどある。GoogleEarthを使用すれば、距離測定はたやすい。「雲魚亭」の前には、畑地があり、続いて民家が一軒、そして「住井宅」。その位置関係は、ほぼ一直線上にある。 

 そこで私は検証を試みた。双方の建物間内での検証は不可能なので、路上で行った。「雲魚亭」脇の道路に立つと、住井宅側の人物が見えない。仕方なく、協力者には、姿の見えるところまで戻ってもらった。結果として距離は短くなったわけだ。早速「雲魚亭」側から私が大声をあげ、対面する相手の反応を逐一確認したが、結果として声は届かなかった。ご近所が驚くような大声は控えたが、建物外でこの結果だから、実際に即し、双方が建物内に入り、且つ、後ろ向きで発した声(朗々と響いてくる声)を感知できる範囲となると、更に限定されるはずだ。

 承知の通り、芋銭は生まれつき蒲柳の質である。そして常に病がちである。体を鍛えてもいないから、肺活量も声量も体力も知れたものである。加えて、齢70を迎える。「声が聞こえてくると、うちの裏窓を開けて先生の姿を見てましたよ」とあるから、裏窓を締めていても芋銭の声が聞こえたようだ。加えて、「座っている後ろ姿が見えるんですよ」ともいうから、聞こえた声というのは、「住井宅」とは逆を向いて発せっられたものだ

 牛久沼を吹き渡る冬季の風は、かなり激しいものがある。風は周囲の木々をもざわつかせ、音(声)を減衰させる要因ともなる。それに、寒い雪の朝でも、雨の朝(雨は万物に落ち、雑音を生じさせるから、声の届く範囲を更に狭める)でも、「住井宅」まで朗々と響いてきたという。

 「雲魚亭」は、3方向がガラス戸なっており、それらを閉じれば、「住井宅」まで芋銭の声が、朗々と響きわたることなど有り得ない。ところが朗々と響いてくるというのだから、最低条件として、観音経を誦するときの「雲魚亭」は、ガラス戸も障子も全部開けっ放しになっていたと考えるよりほかない。その観音経は、20〜30分続いていたともいう。

 芋銭は、冬季の厳寒の朝、雪朝、冷たい雨の朝、季節風が吹き荒ぶ朝等々、どういう朝であっても「雲魚亭」を開け放って、観音経を20〜30分間誦していたとしなければ、辻褄が合わない。毎日この環境にあれば、健常者でも体調を崩すことは必定である。まして、虚弱体質の芋銭がそういう環境にいたとしたら、たちまち床に臥すことになるだろう。

 以上を纏めると、まず話に一貫性がない。加えて事実と相違する点もあり説得性にも欠ける。

 どうにも理解の範疇を超えた話である。

 

3芋銭の絶筆ともなった最晩年の斎藤隆三宛書簡について

「芋銭先生!!」“橋のない川”の作者住井すゑインタビュー

「最晩年の芋銭」

 左手で字を書くようになられたけど、左手で書いても右手と同じような字を書いた(斎藤隆三宛書簡)んですね。十二年の暮れにね。(掲載文献は、1に同じ。72頁)

 昭和13年1月末、芋銭は病に倒れ右半身不自由となった。暫くして秋の頃になると、上半身を物に倚り懸かりつつも起こせるようになり、文字を書く練習を始めた。その練習の過程を見られる資料が、小川芋銭記念館「雲魚亭」に展示されている。それらを見ると、文字にならいものも散見される。絶筆となってしまった斎藤隆三の書簡もまた同様で、練習開始時期よりは確かに進歩はあるものの、かつて右手で書いた名筆には遠く及ばない。だから「左手で書いても右手と同じような字を書いた(斎藤隆三宛書簡)んですね」とは言えない。

 住井すゑは、絶筆ともなってしまったこの書簡が、「昭和12年の暮れにね」と言っているが、これは、昭和13年の誤りである。ちなみに書簡の日付は、昭和13年11月5日である。

 

4 芋銭は長男修一より、住井すゑの夫・犬田卯を頼りにしていたということについて

「芋銭先生!!」“橋のない川”の作者住井すゑインタビュー

「抱樸舎」

 小川先生は自分の息子よりもうちの亭主を頼りにしてて・・・」(掲載文献は、1に同じ。71頁)

 どうやら住井すゑは、芋銭を語るとき、その中心に芋銭を置くのではなく、夫と共に自分たち二人がその中心にいなければ気が収まらないらしい。よくよく文章を読んでみると、上辺では芋銭を語りつつも、実は、自分たち二人の存在が、如何に大であったかを知らしめようという魂胆が透けて見える。

 ここまでくると、反論を記す気も失せて、匙を投げたくなる。

 さて、芋銭は犬田卯の性格に触れ、「お手紙に見ゆる暗き村人云々は御尤ではあるが 僕は君が餘り病的に狭量になるつゝあるのを悲しく思ふ 君の性格から 病的から 人の中を嫌ふとすれば 眞面目に自然と融和の方法を講じられなければならぬ 融和の方法を得て後 更めて人間の中に行く必要を認る場合が來るだらうと思ふ」(大正4年5月14日付犬田卯宛芋銭書簡)と記し、詳しくは帰郷の後に話しをしようと結んでいる。『芋銭子作品撰集』には、犬田卯宛の書簡が48通収録されている。それらの文面からは、「自分の息子より亭主を頼りにしてて」というものを読み取ることは困難である。それどころか、前記したように、芋銭が犬田卯を諭し、あるいは思いやるものが多い。

 芋銭が長男修一に宛てた書簡は、現時で61通確認できる。それらの文面には、留守にしている芋銭自身の現況が事細かに記され、また、小川家の戸長としてなすべきことを修一に頼むものや、秘書的事務依頼の事柄が詳細に記されている。こういった書簡群が存在すること自体、住井すゑは考えたこともなかったのだろう。

 いずれの場合でも、常に自分たちが中心にいなければ、住井の心は満たされないようだ。憐れな人間である。

 作家であれば、裏付け資料の重要性は身にしみているはずだと思う。芋銭論・芋銭評は小説ではない。「亭主を頼りにしてて」というなら、納得の得られる実例を基に語るのが、物書きのあるべき姿勢だ。

 以上のような芋銭論がまかり通ると、後々の芋銭像はどうなってしまうのだろうか。

 

5 犬田卯が、芋銭の便器が気になって伏せている芋銭のもとへ毎朝通ったということについて

「酒を愛した芋銭」(掲載文献は、1に同じ。77頁)

 晩年、先生は床につきっきりになって。亭主が毎日様子を見に行くと、「卯さん、便器をとってくれよ」といってね。奥さんは本屋のほうにいる、先生は画室で寝てる、小便がしたくなっても体が動かないから便器がとれないんですよ。亭主は便器が気になって毎朝行くんです。そうすると「卯さん、便器を取ってくれよ」といって小便をして、「ああ、これで楽になった」なんてね。

 一般論だが、病んで伏せてしかも半身不随の者がいれば、朝夕関係なく誰一人としてその様子を気遣わないということは有り得ない。もしもこれが事実であれば、芋銭の妻をはじめとして、小川家の全員が伏せている芋銭に気をつかわなかったことになる。ここまで小川家に土足で入り込む住井の意図は何なのだろう。

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