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小川芋銭遺品群デジタル化について

1 デジタル化の経緯

2 第1集 芋銭宛書簡集について

3 第2集 草稿下絵等について

4 第3集 旧蔵書について

5 第4集 旧蔵書画について

6 第5集 遺品等について

7 第6集 日記類について

8 第7集 関連資料等について

付:デジタル集利用方法

           北畠 健

1 デジタル化の経緯

 小川芋銭の大量の遺品群が、芋銭旧居「草汁庵」脇の二階建の物置に、約50年の間手付かずの状態で保管されていた。芋銭令孫の小川耒太郎氏の依頼を受け、その整理に着手したのは20年以上前の2002年のことである。耒太郎氏の談によれば、芋銭没後遺品群が旧居の一部屋を占めるほど遺されていたが、それらの散逸を危惧した芋銭の妻きい(通称こう)氏が、二階造りの物置を建て、その階上に全ての遺品を運び込み保存を図ったということである。いま私たちが大量の遺品群に接することができるのは、実にこう氏の功績あってのことで、賞賛されるべきことである。

 当時、私は茨城県立歴史館で学芸員をしていた関係上、休日を利用して調査・整理にあたった。いよいよ 整理作業開始となった日、期待に胸を膨らませ物置の2階に上がった時、どこから着手すれば良いのか困惑の念を抱いたものだ。その状態は下図のとおりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 図版では実状よりはるかに綺麗に見えるのだが、室内に50年の間に積もりに積もった塵埃は想像を遥かに超えるものであった。塵埃は書籍や資料等の内部にまで入り込み、加えて鼠等による汚染・破損などもあり、室内及び資料群の清掃のみでもかなりの月日を要した。簡易撮影と並行し、資料群に固有の番号を付し目録取りにまで漕ぎ着けたのは約2年後のことである。

 途次、未知の芋銭に関する情報を確認する度耒太郎氏に報告、喜びを分かち合った。

 一応の整理が終わった段階で、朝日新聞夕刊(2004年5月14日)、及び同新聞茨城版(2004年5月15日、紙面半分を割く)で紹介され、芋銭の遺品群の存在が世に知られるところとなった。

 更に、2004年牛久市に誕生した市民による小川芋銭研究団体「芋銭を学ぶ会」主催の小川芋銭展(2005年、会場:シャトーカミヤ本館)では、「芋銭旧蔵資料調査速報展」と銘打ち、芋銭研究上重要且つ話題性の高い資料が展示紹介され注目を集めた。同展では図録も刊行されているので参考にされたい。

 このようなことも相まってか、牛久市では芋銭への関心が日に日に高まり、2008年、遂には市の文化事業として、「小川芋銭研究センター」の設立を見ることになる。当初は芋銭旧居「草汁庵」の一室を事務所とし、本格的に芋銭研究顕彰が開始された。隔年開催の小川芋銭展、小川芋銭検定、ホームページ開設、講演講座開催等々、事業内容は多岐にわたる。ただ、草汁庵一室での活動には元より限界があったため、翌年、他の施設が移転したのに伴い、その跡に「小川芋銭研究センター」を移設し、更なる活動を展開した。

 言うまでもなく、芋銭旧蔵資料群の調査・研究も主軸となるわけで、それらをもとに、

  ・小川芋銭全作品集

  ・小川芋銭印譜集

  ・小川芋銭草稿・下絵集

  ・小川芋銭宛書簡集

  ・小川芋銭旧蔵書集

として纏め、順次刊行する計画が立てられた。

 最初の事業としての『小川芋銭全作品集』刊行にあたっては、チームを編成し、香取達彦・二見達夫・鈴木哲夫・北郷康子の4氏が編集委員として加わり進めることとなった。最終的に収録作品は約3千点を数えるに至った。それらを一冊に纏めることは、製本上の問題や作品集使用時の利便性等々を鑑み、挿絵編・本絵編の2分冊として刊行することになった。刊行は、2013年である。当該作品集の内容であるが、単なる図版掲載に止まらず、個々の作品ごとに、制作年代の特定、画賛解読とその典拠の解明、掲載文献までをも収録しているところに特徴がある。芋銭研究において、画賛に関しては、どちらかといえば疎かにされがちであり、画賛つまり画中の文字は、絵の一部としてみれば事足りると説く研究者も存在していた。そういう状況下において、全作品集は芋銭研究の欠を補う文献としてかなり意義あるもになったと思う。

 ところが、2015年秋、牛久市は市長交替により新体制となるや、「小川芋銭研究センター」は不要の存在として廃止され、それに伴い、遺品群資料集の刊行という事業は霧と消えた。廃止の第一義は、存在していても対費用効果が得られないということであった。

 芋銭旧蔵資料群の価値や調査研究等が如何に重要なことであるかは、通常の感性を有していたなら調査速報展や『小川芋銭全作品集』の刊行を通して十分理解できていたとは思うのだが、それから後、牛久市が何らかのアクションを起こそう、あるいは起こしたという便りは一向に聞こえてこない。芋銭旧蔵資料群は、牛久市にとって何らの価値もない存在となってしまった。

 そのような中、「小川芋銭研究センター」廃止後、『小川芋銭全作品集』刊行に関わったメンバーのうちの3名(2名は既に物故。残った3名(香取達彦、北郷康子、北畠健)から、資料群の保全や利用に供するための策を図ろうという考えが自然発生的に起こった。2018年暮れのことである。

 話し合いの結果、資料群は時の経過と共にいずれは劣化してゆくものだから、現時点の状態をそのまま後世に伝えるため、デジタル化しようということになった。だが、大量の資料群故に果たしてデジタル化は可能なのか危惧されたが、とにかく実施しないことには始まらないので、問題が生じた際はその都度対応しようということになり、年が改まった早春(2019年3月9日)から作業が開始された。小川耒太郎氏の御厚意により、作業は芋銭旧居「草汁庵」の一室を拝借し行われることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

    実施にあたり、遺品類の番号づけ、目録作成及び書簡解読等々は、2002年から始めた最初の調査時に北畠が作成したものを利用し、これに沿って進めることにした。遺品類の撮影機材等の用意と撮影及びそれに伴う画像処理等は香取氏が、撮影時の遺品類の準備とセッティングは北郷氏(調査風景記録も)と北畠がそれぞれ担当した。こうして進められたデジタル化だが、途次新たな資料が何度か確認され、撮影数は更に増大した。これらを進める上で最も弊害となったのは、世界中を巻き込んだコロナ禍である。幾度となく中断を余儀なくされたのはいうまでもない。下図版のように資料を物置2階に納め、全ての作業が終了したのは、2021年12月17日のことである。意図したわけではないが、奇しくも12月17日は芋銭命日にあたる。

 以後は資料群の性格を吟味し目録の再作成、残っている画像未処理の図版と再作成した目録との照合等々の事務処理が待っている。画像処理等は香取氏、目録作成は北畠が当たったが、互いに混乱をきたしたものの、最終的に次のように資料群を分けることで落ち着いた。ディスクへの記録もこれに従った。

 第1集 芋銭宛書簡  目録付 収録:1320点(全点解読付) 収録図版:298点

 第2集 草稿下絵等  目録付 収録:  276点 収録図版:276点

 第3集 旧蔵書    目録付 収録:1010点 収録図版:56点(1冊で数カットあるも1点とする)

 第4集 旧蔵書画   目録付 収録:    28点   収録図版:27点

 第5集 遺品等    目録付 収録:    19点 収録図版:19点(1点で数カットあるも1点とする)

 第6集 日記類    目録付 収録:    10点 収録図版:10点(1点で数カットあるも1点とする)

 第7集 関連資料等  目録付 収録:    22点 収録図版:22点(1点で数カットあるも1点とする)

 次に各集の特徴について記す。

 

2 第1集 芋銭宛書簡について

 上記の通り第1集の収録点数は1320に及ぶ。そのうちの全てが芋銭宛のものばかりではなく、芋銭自筆の書簡も含まれている。また、それらの書簡群の全てには解読文を付すのを基本としているが、個々の書簡の内容を精査し、公開が憚れるものについては解読文を省略した。

 任意の画家を論ずる場合、しばしばその画家の書簡を引用することがある。これは芋銭にとっても例外ではなかった。しかし、芋銭宛の書簡が大量に確認されたことにより、一般の人々から芋銭がどのように見られていたかを知ることも可能になった。

 大量の書簡中、注目すべきものを数通挙げてみる。

 先ずは、No. 1104 尾崎行雄の書簡について記す。

 通説よれば、芋銭が尾崎行雄の紹介により朝野新聞の客員になったのは、1888年(一説には1887年とも)とされている。これは、確たる資料がないため、已む無く先人の研究を踏襲したに過ぎない。この年に同新聞の客員となったのであれば、1888年の紙上には芋銭の作品が掲載されていて然るべきだが、1889年まで調査の範囲を広げても一向に芋銭の作品は見当たらない。そういう事情から、1888年説には以前から疑問を抱いていた。しかし、この疑問は大量の芋銭宛書簡群の調査により払拭された。当初この書簡はほぼ中央から2分され、全く別の場所に保存されていた。したがって、図版に見るようにこれらを一つにするには相応の日時を要した。書簡には、「留守中に届けられた絵画を早速紙上に掲載したいが如何か。更に、博覧会の出品物も描いて欲しいので、銀座にある社屋で話し合いたい」ということが記されている。書簡の年代は不明だが、博覧会(第三回内国勧業博覧会)という記述から、1890年と特定できる。留守中に届けられた絵画は、1890年4月14日付の同紙上に「手拭の被り方」と題して掲載されている。これは、同紙上に見られる最初の芋銭の作品でもある。書簡には4月4日と明記されているから、時系列上何らの齟齬もない。書簡文は「御枉駕」等々極めて丁重で、しかも朝野新聞の所在地まで記してあることから、芋銭が同新聞の一時雇われの画工となったのは、1890年と見て良いだろう。この書簡は、画家芋銭の出発時期を確定する実に貴重な存在である。

 次に、No.989 幸徳秋水の葉書について。

 文章は年賀挨拶を含めた極めて短いものである。芋銭は1904年から『週間平民新聞』(前年創刊)に継続して挿絵を描いた。それから後も、創廃刊を繰り返す初期社会主義関係の紙誌に、多数の挿絵をほぼ無料で描いた。この葉書にはそういう芋銭への秋水の謝意が記されている。ついでながら、この葉書は、『幸徳秋水全集』(明治文献資料刊行会他編)には未掲載である。第3集の項にも記したが、旧蔵書中には秋水のサインと献呈書が認められたNo.621『麵麭の略取』も存在する。秋水らとの交友が密であったため、大逆事件が起こった頃から、芋銭にも官憲の監視の目が光るところとなった。しかし、当の芋銭は「田舎の哀れなる画家に何の危険思想」と一蹴している。芋銭研究においては、芋銭を社会主義者として、一方ではそれを否定する両論がある。それは、多分に論者の信条や思想に拠るところが大きい。この得意な時期の芋銭については、更なる研究が深められることを願う。そのためには、芋銭の大量の遺品群を詳細に分析する必要があるだろう。

 続いて、No.179 田岡嶺雲の書簡について

 芋銭と嶺雲とは、互いに類似する思想「弱者に対する同情及び東洋風の非文明思想」を抱いていた。そういうこともあって、二人が親交を結び、それは嶺雲が没する1912年まで続いた。芋銭研究において、嶺雲はさほど重きを置かれることがなかったようだ。芋銭嶺雲共著『有声無声』(1908年)の刊行が、芋銭年表に加わるようになったのも近年のことである。書簡群の中に嶺雲の書簡は1通のみ存在する。その内容は、嶺雲最晩年に自伝『数奇伝』(1912年)刊行にあたり、巻頭序文と挿画を一・二点依頼したいというものである。芋銭は要望に応えて、挿画のみ3点描いた。当該書簡だが、法政大学出版会刊行の『田岡嶺雲全集』には、未掲載であることを書き添えておきたい。

 まだまだ特記したい書簡があるのだが、この辺に止めおく。

 最後に、芋銭宛の書簡群のうち主な人物を五十音順に記しておく。それぞれの研究に寄与するところ大であると思う。

 池田永一治、池田龍一、生方たつゑ、小川千甕、金子薫園、川端龍子、幸徳秋水、小杉放庵、小林巣居、斉藤隆三、

 酒井三良、堺利彦、田代与三久(蘇陽)、西川光二郎、西山亮三(泊雲)、田岡嶺雲、田原東窗、中島菜刀、平櫛田中、

 本多錦吉郎、本方昌(秀麟)、森田恒友、門間春雄(波浪)、安田龍門、山田正平

3 第2集 草稿下絵等について

 草稿下絵等の整理に着手した当初、それらの殆どがクシャクシャの状態であったので、よく処分されなかったと感心したものだった。整理に当たっては先ずシワを伸ばし重しを乗せて相応の期間その状態を保ち、扱える状態になった頃合いを見計らい、固有の番号を付し並行して簡易撮影をしながら目録どりを進めた。草稿下絵等の殆どは紙片であり加えて表裏に文字や絵の断片が書かれている。和紙の性格上墨の滲みにより判読もままならないものが多数存在していた。したがって、着手したばかりの頃はさほどの情報は得られないだろうと思っていたが、調査を進めるに従いこの考えは誤りであることを思い知らされた。

 目録の備考欄に、草稿下絵等と実際の作品との関係や、走り書き・メモ等を解読分析して、典拠があると思われるものについては出来得る限り追究して記した。このような一連の調査にあたり、小川芋銭研究センターが精力的に活動していた頃に刊行した『小川芋銭全作品集』からは、計り知れない恩恵を蒙った。

 No.0148には、カットの画稿らしきものが描かれている。これがどのような作品になったか、あるいはどのような文献に掲載されたか、または単なるメモに終わったのか、その性格を見極めるのは非常に困難である。既刊の芋銭画集等の類ではそういった情報が皆無であるから、解決のヒントさえ得ることができない。ところが『小川芋銭全作品集』を丹念に調べてゆくと、制作年代までも特定できるのである。これらの画稿は、「寸画集(六種)」と題し、『東京日日新聞』(1926年3月22日)に掲載されている。断片的な草稿下絵であっても、『小川芋銭全作品集』を効果的に利用することにより、解決に至ることが可能になるという一例である。

 No.269~273は、芋銭最初の画文集『草汁漫画』(1908年刊)の校正資料である。掲載順位や季節を指示したり、書き加える短文を練った様子を知ることができる。遺品群の整理にあたり、この類のものが出てくることは想像だにしていなかったから、ただ驚くばかりである。

 No.0262「摺物 水虎相伝妙薬まじない」は、芋銭がカッパの姿態を描く場合に参照したもので、特に最晩年の「河童百図」に大きな影響を与えた。この摺物は、置き薬売りなどが各戸を巡り歩いた時に、オマケとして置いていったもので、その時代には多くの家にあったはずである。文字の部分を読んで見ると、生活の知恵などが記され、下部にはカッパの絵が添えられている。芋銭はこのカッパの絵に着目参照して、多くの作品を制作した。

 No.0274「瓜番の妻」は草稿下絵中でも特別な存在である。明治期の芋銭の作品は、肉筆画ではなく木版画として鑑賞の用に供されている。当時は、写真の技術が未発達で、肉筆画の公開手段が極めて乏しかったから致し方ない。紙誌に掲載されるまでの概略を記すと、先ず画家は指示された大きさの絵画を、美濃紙のようなものにかなり筆数を抑えて描き、それを元に彫師が木版に起こす。それを刷り上げて作品となる。木版に起こす時、原画は直接板に貼られてしまうので、必然的に原画は消滅してしまう。したがって、後世木版自体の存在が確認されることはあっても、原画が発見されることは皆無となる。この「瓜番の妻」は、短文「沼の家より」中の挿絵として描かれたものだが、おそらく出来に不満があり描き直したのだろう、結果として満足のゆかなかった原画が遺ったという次第だ。描き直された「瓜番の妻」は、雑誌『火柱』(1-4 1908刊)に掲載された。双方を比較すれば、異なる箇所をいくつか見出せる。確証を持って言えるが、木版の下絵として遺されている芋銭の原画はただこれ一枚だから、その貴重さは特記するまでもない。描き直された「瓜番の妻」が掲載された文献を探るにあたり、前記の『小川芋銭全作品集』を活用したことは改めて記すまでもない。少し当時の事情を書き加えれば、木版により紙誌上に掲載された作品は、偏に彫り師の技量にかかっている。木版により表現された明治期の芋銭の作品中には、あまりにも稚拙すぎて見るに耐えないものも存在する。こういうことに表現の限界を感じた芋銭が、本絵(肉筆画)によって自身の芸術を表現したいと思うのは、極めて当然のことである。時代が明治から大正に変わる頃から、芋銭の作品の多くは肉筆画に変わってゆく。

 No.0276「日本美術図譜ぬきかき集」は、『大日本美術図譜』(小杉榲邨, 横井時冬 著 1901年)から任意の図をいくつか抜き出し模写したもので、芋銭が画技を磨くための一端を知るために欠かすことができない資料となっている。図版に見るとおり、全ては芋銭の画風とは正反対の精緻を極める筆使いで描かれている。芋銭の画家としての弛まない精進の跡が十分に見て取れるだろう。

 

4 第3集 旧蔵書について

 芋銭が驚異的な学殖を有していたことは既に説かれているところである。芋銭がどのような書籍に接していたのか以前から興味があったので、旧蔵書群が見られるということになった時は、期待に胸を膨らませたものだ。芋銭の書簡や既刊の芋銭文献には蔵書に触れる記述もあったので、それらは今でも保存されているのだろうと思っていたが、多くは散逸してしまったようだ。しかし目録に見るように、旧蔵書は、和漢の古典籍、仏典、禅籍、俳書等々多岐にわたり、改めて芋銭の偉大さを思い知らされた。これらの本を読み進めれば、さらに芋銭像が鮮明になることだろう。

 旧蔵書の中で最も貴重且つ特異なものといえば、No.621の『麺麭の略取』だろう。表紙に「謹呈 小川賢兄 秋水生」とある。この書籍は無政府主義という当時の権力者らを震撼せしめる内容故、発禁処分を受けている。そういう事情もあって、幸徳秋水の謹呈書きのあるもはそうそう存在しないだろう。国会図書館蔵の書籍を見ても、献呈書きなどは見当たらない。当該書籍は秘密裏に出版され、配布すべき所への配布を終えた頃合いに、出版の事実を政府に伝え発禁処分となった。芋銭へ届けられたのは、政府への届出前のことと考えられる。所蔵しているだけでも危ない書籍なのに、図版に見るように、しっかりと「謹呈・・・」と書かれているので、芋銭もその取り扱いには特に慎重を期していた。ある人から当該書籍を読みたいので借用を申し出られた時、「誰であったか読みたいというので貸したが、そのままになってしまった。」と、嘯いている。サイン入りの謹呈書きがあるところから、今まで考えられていた以上に、芋銭と秋水の親交の度は深かったと見るべきだろう。

 話は変わるが、芋銭はカッパを多く描いたところから、「カッパの芋銭」として広く知られている。ではどのような書籍からカッパに関する知識を得たのか、一部ではあるものの旧蔵書からうかがい知ることができる。

 まず、作品の構想を練るにあたっては、No.051『カッパ夜話』、No.158『日本随筆大成 巻五(善庵随筆)』、No.244及び948『日本霊異記』、No.330及び392『禅林句集』、No.560『利根川図志』、No.698『山東民譚集』、No.719『動物界霊異誌』、No.827『良寛和尚詩歌集』、No.862『小野小町一代記』、No.915『荘子 巻一~十』等々が挙げられる。特に、No.719『動物界霊異誌』の余白には、カッパに関する芋銭の知識がページの余白に数多く書き込まれており興味深い。旧蔵書中には確認できなかったが、『筑紫野民譚集』(及川儀右衛門 郷土研究社 1924)という書籍も、間違いなく芋銭のカッパ絵に大きな影響を及ぼしているので、付記して置きたい。

 一方、作画(特にカッパの姿態)に関しては、No.234及び242の『北斎漫画』、No.704『倭漢三才図会』、No.750『浮世画譜』等々を参照していることが解った。今までの芋銭研究において、芋銭が北斎を学んでいたことなど一度も説かれたことがなかったから、事実を知ったときには本当に驚いた。これを知るに至った経緯を記せば・・・ 『北斎漫画』の埃を払っていた時に、大きな付箋のようなものが挟み込まれているのに気付いた。当該箇所を開くと、両ページにわたって大きなクジラの図が掲載されている。芋銭は「河童百図」の一図中に、この図を『荘子』秋水篇に登場する北海の主・北海若として、そっくりそのまま引用している。「河童百図」については100図全てを記憶していたので、当該ページを開いた時、「アッこれは!」と思わず声をあげてしまった。改めて調べ直したところ、「河童百図」中2割の作品に北斎の影響があることが解った。早速、ご当主・小川耒太郎氏に報告し喜びを分かち合った。『北斎漫画』中付箋のあったページは両開きで全体を図版化し、参照した個々の図に関しては、当該図のみを取り出して図版化した。

 2004年10月3日、NHKの新日曜美術館で小川芋銭が45分番組として放映された時、当然これらのことも大きく取り上げられ、出演者の一人が、「芋銭が北斎を学んでいたことなど想像したこともなかった」と語っていたことが印象的であった。

 さて旧蔵書に関してはもう一つ重要なことを記しておく。

 画家として本格的に絵を学ぶ前、つまり少年期の芋銭はどのような絵を描いていたのだろうか。これに関しては、拠るべき資料が無いから知ることは到底できないだろうと考えていた。ところが、No.527『日本略史 二』を手にした時、裏表紙に「明治十三年九月九日 後期三級生徒 小川茂吉」と墨書され、その右下の汚れのようなものが気になっていた。書籍調査をしている物置2階には薄暗い電灯が1つあるのみだから、小さな明かり窓近くに寄っても汚れとしか見えない。とりあえずメモ的撮影をして、Photoshopを用い後で調べることにした。画像処理をして驚いたが、そこには落描きのような拙い絵(猟師が鉄砲で獲物を狙っている場面)が描かれていた。芋銭の少年期(12歳)の絵など存在するはずもないとないと思っていたので、飛び上がるほど嬉しかった。これは、茨城版ではあるが、全新聞で取り上げられ、また、2005年には小川芋銭展(芋銭旧蔵資料調査速報展)で展示紹介され、多大な関心を集めた。

 実際のところ、芋銭の全旧蔵書の調査は一人の力ではどうにもならない。といって多くの人たちが入り込むと、必然的に散逸という良からぬ結果を招くことになる。旧蔵書保全を第一義とし、真摯に取り組んでいただける人たちの出現を待ち望んでいる。 

 

5 第4集 旧蔵書画について

 特筆すべき旧蔵書画として、No.28の本多錦吉郎作「上野公園の秋」が挙げられる。本多は、画家としての芋銭が師事した唯一の人物である。この作品は、前項旧蔵書中のNo.008『洋画先覚 本多錦吉郎』中に収録されている。本多没後、その顕彰碑の建設(1933年5月完成)にあたり、奔走した芋銭に対する本多家からの謝礼として、芋銭の蔵するところとなったのだろう。当該作品の制作年(1885年)は、奇しくも芋銭が「彰技堂」の全科を修了した年でもある。

 他には、芋銭が愛でたNo.5の名月上人の書作品が挙げられる。名月上人は良寛らと共に「近世の三筆」と称され、正岡子規や夏目漱石らも賞賛している。また、親交のあった野火止平林寺の僧・大休宗悦の書(No.6、No.13)の存在も明記しておかなければならない。

 実は旧蔵書画の調査にあたり、大きな期待をしていた作品がある。画商・俳画堂宛の芋銭書簡をまとめた『河童の影法師』(1940年刊)によれば、芋銭は与謝蕪村の作品を手に入れたく俳画堂に依頼し、やっとその夢が叶った。芋銭の手元に届くというその日、芋銭は到着を待ちきれず牛久駅へ向かった。当時、荷物の多くは鉄道便で輸送されていたからだ。行違いで蕪村作品が既に自宅に到着していたことを知らされ、芋銭は大喜びをしたという。この作品を是非とも見たいものだと切望していたが、残念ながら遺品中には存在しなかった。

 No.26は、良寛和歌という芋銭の箱書が認められているのだが、中身が存在しない。前記の蕪村作品も所在不明となっているように、芋銭の旧蔵書画はもっと豊かであったことだろうが、時の流れのなせる業で致し方ないことである。

 

6 第5集 遺品等について

 まず、No.4「芋銭使用墨数種」について記しておく。今回牛久の小川家所蔵の遺品群のみによって、この記録集を作成したのだが、外部の所蔵となるNo.4「芋銭使用墨数種」については、唯一の例外として収録することとした。それは、芋銭が作品制作にあたり、どのような墨を使用していたかを論じた文献には、未だ接し得ないという現実があるからである。これらの墨は、芋銭没後、芋銭の最大の理解者の一人福島市の医師「池田龍一」へ遺品分けとして小川家から贈られたものである。その後所有者が幾度か変わり現在東京住の個人が保存している。図版にみるとおり墨のいくつかは銘が判読でき、「胡開文監製」と読み取れる墨が上下に2丁確認できる。「胡開文」は、清代四大製墨名家の一つである。芋銭がこれらの墨を愛用していたことは、今回初めて明らかになった。2丁のうちの一丁は随分使い込まれた様子が見て取れる。芋銭の贋作は芋銭生前から出回っており、没後に至れば改めて記すまでもない。芋銭の真作を見極める場合、化学的な一つの分析材料として有用になることだろう。

 墨に関してもう一つ、No.4~5の「程君房 麒麟墨」に触れておく。墨は何らかの理由で二つに分割されている。その大きさから、実用ではなく観賞用として制作されたものだろう。ただ、銘は「程君房制」とあることと、墨の状態から推して「倣古墨」という位置付けになるだろう。「程君房」は、中国において最も名高い墨匠で、その墨は「金」以上に値すると言われる。画家・書家憧れの墨だが入手困難でもある。芋銭は、横山大観から「程君房」墨を分けてもらい、慎重に扱いながらも丹波にて紛失、八方手を尽くしたがついに見つけることができなかったという話が残っている。

 

7 第6集 日記類について

 収録した日記類のうち、芋銭のものについては全ページを、芋銭の父・賢勝のものについては、芋銭に関わるページのみを抽出し図版化した。

 ここで注目すべきは、No.2の賢勝の「日誌 明治廿六年二月日ヨリ」である。1885年に画学専門校「彰技堂」の全科を終了した後から、1893年までの芋銭の動向を知る資料は皆無に等しいが、この日誌には、1893年に芋銭が牛久へ戻るまでの詳細が記されており、実に貴重な存在となる。これらによれば、脚気が原因で牛久に戻る時期が延びてしまったことや、戻った日にちまで知ることができる。

 また、画家としてよりも俳人としてその名が知られていた頃の芋銭が、句作に専心していたことを明かすNo.5「句作練習帳」(1900年~)の存在も確認でき、情報の乏しかった1900年前後の芋銭を知る手がかりが豊かになったことも喜ばしい。これらの日記類によって、芋銭年表が充実することは疑いのないところである。

 1902年暮、読売新聞は新年の紙上を豊かにするため、絵画や詩歌などを懸賞募集した。絵画部門の課題は「新年の意」である。芋銭もこれに応募し、見事絵画の部門で第一等当選を果たし、作品は翌1903年元日の同紙上を飾った。この快挙よって画家芋銭の名が知られるようになった。少し遡るが、芋銭の父は芋銭が農業にて生計を立てることを望み、画家になることを快く思っていなかった。絵ばかり描いている芋銭を、刀を持って追い回したということが実しやかに伝えられている。しかし、この快挙は確実に父の心を動かした。No.3の「賢勝「日誌」明治丗年二月三日ヨリ」の十二月廿九日のところには、「芋銭の絵が第一等となり、新聞社から懸賞金が送られてきた」と記し、剥がれないように且つ目立つように、しっかりと大きな紙片が貼り付けられている。このことから父の喜び様が見て取れる。ここに至れば、絵画の道に進むことは止むなしと考えたことだろう。事実、芋銭が画料を得た時には、日誌上にはしっかりと期日・金額が記され、年末の締めのページには、小川家の家計として画料の合計金額が記されている。父は芋銭の快挙の翌年他界している。

 父の日誌はかなり読みづらい。しかし、これらを読み進めれば更に新たな事実を知ることになるだろう。

 

8 第7集 関連資料等について

 ここには第6集までに該当しないものを収録した。

 特筆すべき資料として、No.22の芋銭の父・賢勝宛本多錦吉郎書簡があげられる。この書簡末尾には、画学・画技を修めた芋銭が田舎(牛久)に引き込むことを惜しむ内容が認められている。前述のとおり、1885年、芋銭は本多が経営する画学専門校「彰技堂」の全科を終了したが、その後、1893年までの芋銭の動向を明らかにする資料は、極めて乏しい。そういう中で、画家としての芋銭の素質を惜しむ本多の書簡が確認できたことは、注目に値する。

 もう1点、No.7「芋銭先生記念碑贈呈書」である。現在、碑表にかっぱの絵が彫り込まれているところから「河童の碑」と俗称される碑の正式名称が、この資料によって明確になったことは喜ばしいし、建設に至る経緯を知ることのできるNo.11の写真が確認されたことも、特筆に値する。俗称「河童の碑」表のカッパ及び文字は、芋銭直筆作品を元としたのではなく、巧芸画(色紙)によって構成された。印章の部分に「×印」が付されているのが確認できるだろう。これは、巧芸画を元としたため芋銭使用印とは異なるので、削除せざるを得なかったことを意味する。また、「カッパ松」についてだが、現在芋銭記念館脇の小さな公園に植えられている松は、2代目として紹介されているが、No.8「式辞 カッパ松改植の辞」により、3代目であることが確実なる資料によって裏付けられる。

 他に、No.9~12までの写真についてだが、芋銭の長男・修一が出征する時の様子を写したものや、1920年刊行『三愚集』の帙裏絵の秋元梧楼は、No.12の写真を元としていることなど、今まで知られていない多くの情報を提供してくれている。

 

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   第1集 芋銭宛書簡の利用例を記します。

   第1集 芋銭宛書簡フォルダーをクリックすると、次のように表示されます。 

   芋銭宛書簡目録(収録資料の一覧)には、それぞれ固有の番号が付され、2つのフォルダーに収録さ

   れた資料は、この固有番号によって管理されています。

   書簡解読集は、目録番号に符合する書簡の読み、掲載図版には、同様に目録番号に符合する書簡の図

   版が収録されています。

 

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   各集の目録から資料名及び目録番号を基に、目的の図版等がご覧いただけます。

 

 5 なお、各集目録の備考欄には、当該資料に関する情報も付記しました。併せてご活用ください。

 

 6 また、併せて「新刊案内-小川芋銭遺品群デジタル集」も参考にご覧ください。

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