雲魚亭か魚雲亭か
現在「小川芋銭記念館」として公開されている芋銭の居宅兼画室の呼称について、地元の牛久市では、「雲魚亭」か「魚雲亭」のどちらが正しいのかと、今に至っても議論の対象になっている。
呼称の問題となっているこの居宅兼画室に芋銭が入ったのは、昭和12年9月19日のことである。当日は朝来の雨天ではあったが、多量の荷物と共に、約2年ほど過ごした、文村横須賀(現在の利根町、芋銭の長女の嫁ぎ先)の寓居を引き払い、牛久へ戻った。それからの毎日は、『河童百図』や『芋銭子開八画冊』刊行に向けての諸作業、古稀記念新作画展のための作品制作や準備、取手における古稀記念祝賀会参席者のため百余枚に及ぶ色紙制作、長男出征のための準備などなど多忙を極めた。
さて、魚雲亭と記す文献だが、主なものとして、次の4点が挙げられる。
① 「私も魚雲亭を散歩出来るやうになると、どこかへ旅がしたい。文責柳月」(「ポポ鳥の鳴く頃」『ちまき』12-2 昭和13年7月)
②「或る日の魚雲亭」文責柳月(『ちまき』12-8 昭和14年1月)
③ ①を引用(『芋銭子作品撰集』犬田卯 青梧堂 昭和17年)
④ 「この画室は主屋とは別棟に、・・・前年の九月落成したものである。先生はこれに魚雲亭と名付けられた。」(『画聖芋銭』津川公治 宮越太陽堂 昭和18年 156頁)
上記の①②については、脳溢血で倒れ病床にあった芋銭の談話の要旨を、訪問者が書き起こしたものである。①②に「文責柳月」とあるのは、俳句雑誌『ちまき』主宰者・川村柳月のことで、芋銭とは交友があった人物である。それぞれには、「文責柳月」とあるように、文中に何らかの誤りがあれば、その責は川村柳月にあると言うことである。③は①の引用だから、特別の説明は不要だろう。④は、著者が直接芋銭に聞いたのか、誰かから聞いたのかの判別ができないし、加えて、画室の落成時期も誤っているので、信頼に足るものか心もとない。
これらに対して、雲魚亭に関してはどうだろうか。
芋銭が使用した印の中に、「雲魚亭」というものがある。この印および印文に関しては、芋銭自筆書簡(酒井三良宛、昭和11年12月31日付)が現存し、それには、「木人氏には更に「雲魚亭」と題し候木印を頼み度存候」と認められている。ここに記されている「木人氏」とは、篆刻家の長曾我部木人のことである。かなり過去のことだが、私は幸いにもご高齢の木人氏にお会いして、芋銭の印を制作する時の苦労話しを直接拝聴しているし、氏からの直筆書簡も大切に保管している。木人氏は、この他にも芋銭の印を2顆制作している。印文は「大虚筆」で、1つは石印、もう一つはキルク印である。芋銭は、これら2顆の印を、昭和11年12月6日に受け取っている。書簡文中に「更に」とあるのはこのためである。依頼書簡中には、文字の配置と囲み枠が記されているが、これに相当する木印の存在は確認できない。代わりに、キルクを印材とするものが存在することから、事情により印材が変更されたものと思われる。木人氏は芋銭から印はキルクでとの要望があり、材料探しにかなり骨が折れたとも話された。
なお、上記の書簡は、『小川芋銭河童百図図録』(茨城県立歴史館 2007年 21頁)に、図版として掲載しておいたので参照されたい。
ついでながら、『美術館連絡協議会紀要2』花王・学芸員研究助成論文選(編集:美術館連絡協議会事務局編 発行:読売新聞社他 1994年5月)に、芋銭の74顆の印影を収集し作成した「小川芋銭印譜集」が収録されているので、併せて参照されたい。現在流布する文献やブログ上における印文の読み、その典拠、制作者、制作年、印材等々は、悉くこれを基している。事実、印の制作者や制作時期などは、側款を見なければわからないことであるし、印文の読みにしても、自信が持てないものまで同じ読みをしていることからして明々白々である。
画室の呼称を考える時、芋銭自身が「雲魚亭」と認めている自筆書簡が現存しているのだから、もはや議論の余地は全くない。しかしながら、なぜか地元の牛久では、未だに「魚雲亭」が正しいとの主張が繰り返されている。
本題から外れるが参考のため記せば、管見の限りにおいて、「雲魚」と号する俳人が、江戸期に1人、近代に1人存在していた。したがって、「雲魚」という語には、何らかの典拠が存在すると考えられる。芋銭に関わって以来、ずっとそれを追い求めているが、未だ解決には至っていない。
芋銭使用印「雲魚亭」
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