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幼名・不動太郎について
芋銭の幼名は「不動太郎」といわれる。芋銭の父小川傳右衛門賢勝と母えいとの間には、なかなか子が授からなかった。武士の家に跡継ぎが生まれないことは重大な問題でもあった。そこで、不動尊に願をかけやっと授かったことから、「不動太郎」と命名されることになった。芋銭の伝記を繙くと、例外なくこのように記されている。しかし、資料の面からこれらを裏付けられることはなかった。
芋銭は、雑誌『大法輪』4-1(大法輪閣 昭和12年1月)に、「生れた昔」(下記)という一文を寄せた。
生れた昔 芋銭子
明治元年、正しくハ慶應四年二月十八日、江戸赤坂溜池の一角に生れた。両親が愛宕下の不動尊に祈願して
生まれた所から名を不動太郎と付けられた。名は大變強さうだが、至極小さな弱々しい赤ん坊であったと云
ふ。或時大叔母が遠緣に當り當時幕府の典醫で小兒科では神醫呼ばれた人に伴れていつて診て貰つた□其醫
者が□ふ。此兒が三つまで育てば煎豆に花だと。爾来煎豆の花も幾春を重ねてことし六十九年の命。夢の浮
世を思へば恍惚として不思議を感ずるのみである。……
上に掲げたように、「生れた昔」の一文には、一部であるにせよ芋銭自筆の原稿が掲載されている。芋銭伝に記された事実がこれによって揺るぎない事実になった。更には、生来蒲柳の質であったことまで明らかにされた注目すべき資料である。
添えられた絵画も、「カッパの芋銭」の誕生と「カッパの誕生」とをかけ秀逸である。
文中の願をかけた「愛宕下の不動尊」とはどこなのか、調査中である。近々、お知らせすることができると思う。
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