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芋銭の二つの別号について

1 号「顧白堂」

 明治38年10月29日付『いはらき』新聞のいはらき文學欄に、「てがみ 三 (四)小川芋銭氏 毛物を離れて神に近づく」と題して、芋銭のかなり長文の書簡(他に、田岡嶺雲、鹿島櫻巷、佐藤紅綠の書簡もあり)が掲載されている。その書簡の最後部には次のような文面が記されている。

 草の戸や餘寒の海の底光り 顧白堂(秋人曰く 此手紙には顧白堂爲とあり 顧白堂は芋銭氏の別號なり)の意は獣に近からんとする時 自然の湖光白きあたりを顧みるとの意 白の字の強き心持は御座なく候

 書簡中の(秋人曰く…)は、文學欄担当者の註釈。ちなみに「秋人」とは、芋銭芸術の本質を最初に認めた「佐藤秋蘋」(いはらき新聞の主筆を2度務める)である。また、「草の戸や……」は、芋銭作の俳句。「顧白堂の意は……」は、芋銭自身による「顧白堂」という別号の解説。

 書簡の末尾には、日付として「卅九年二月二日」とあるが、これは掲載紙の発行年に矛盾するので、「卅八年」の誤りであろう。

 以上により、明治期使用の芋銭の別号に、新たに「顧白堂」が加えられたことになる。

 初出:「研究ノートより 一 顧白堂」『艸汁會報』第3号 草汁会 古美術妙童 1990年4月

 

2 号「東瓜庵」

 芋銭は、明治43年2月10日付の『國民新聞』に、「餅花(田舎の正月)」(下図)という作品を描いた。作品は、豊作を祈念して、小正月に行われる田舎の年中行事を題材としたものである。ヤナギやヌルデなどの木に、丸めた紅白の餅を刺して神棚や家の中に飾る。「繭玉かざり」とも言われる。この作品では、「新年や大椿に餅装ひぬ」とあるように、椿の木が用いられている。注目すべきはその上の瓢の中に書かれた「東瓜庵」と言う文字である。これは、明治期使用の芋銭の別号と考えられる。ちなみに号の典拠は、「東陵瓜」(『史記』蕭相國世家)と思われる。

*以上の1,2により、芋銭の明治期の未知の別号として「顧白堂」「東瓜庵」が新たに加えられた。

芋銭作 餅花(田舎の正月)

​「餅花(田舎の正月)」 國民新聞 明治43年1月9日

*付記

 この「東瓜庵」については、芋銭の別号であることを実証する資料が存在する。

 明治43年1月6日付、井野村(現取手市)の普門院(福田井村)宛の芋銭自筆葉書に、自作の俳句10句と共に、「俳号改 東瓜(トウグワ)庵」と記されている。この葉書はおそらく取手の句会「水月会」に関わるものかもしれない。昭和12年、取手において「小川芋銭先生古稀記念祝賀会」が開催されたとき、『小川芋銭先生小伝』(吉原格齋 芋銭先生古稀祝賀会 昭和12年 *数ページの小冊子、裏表紙に「寄贈者 高安賢吉]と印刷されている)が作成され、参加者に配布された。その中にも、芋銭の別号として他と共に「東瓜庵」が記されている。取手の人たちにとって、芋銭が「東瓜庵」の別号を使用していたことは既知の事実であった。

 さらにこの小伝は、石島績著『小川芋銭のことども その知られざる反面』昭和32年刊 にも再掲されている。

 上の作品では絵画の中に書き込まれているが、葉書に「俳号改」とあるように、俳号として明治43年年頭からの一時期、号「東瓜庵」が用いられたようだ。

 

 あるグログ上に、「芋銭の別号」と題し、これを別号とするのは如何なものかと批判・否定する書き込みがある。裏付けとなる資料の存在も知らず、安易な批判・否定は、混乱を招く以外の何物でもない。迷惑なことである。

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