なぜだろう 中河与一の歌碑をめぐって
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小川芋銭記念館「雲魚亭」を沼側に降りて行くと、小さな公園がある。そこからは、芋銭が「こんないいところはない」といった牛久沼の一部が見える。厳冬期には「黒富士」も望むことができる。
公園内には、3代目の河童松が改植され、すぐ側には芋銭筆の「牛久沼河童松」という文字が刻み込まれた碑がある。この文字は、河童の芋銭を代表する「河童百図」第49図「河童松」の賛から取り出したものである。
種々の資料を読むと、この河童松は2代目と記されているが、これは誤りで、河童伝説を伴った初代の河童松が枯れた後、芋銭の三男らが組織した芋銭研究会「草汁会」が、かつて改植を試みたが、それも枯れてしまい、現在我々が目にしている河童松は、3代目ということになる。
実はこの3代目の河童松だが、初代の松があったところとはその場所が随分異なっている。初代の河童松は、沼側に向かって、3代目の河童松よりさらに左手奥の崖上にその威容を誇っていた。
それはともあれ、この一帯は、芋銭顕彰の地でもあるから、このようなものが存在することは相応の意義があると思う。
それでは、本題の「中河与一の歌碑」についてだが、なぜ芋銭顕彰の聖地ともいえるこの地の、しかも特等地ともいうべき所に建てられているのだろうか。ここに碑があれば、当の人物と芋銭とは特別な関係があったと解されて当然であり、まして、この地を訪れる人々においては、なおさらのことである。
中河与一(1897〜1994)は、香川県生まれの小説家で歌人である。芋銭が他界した翌年早々、美術雑誌・俳句雑誌等は、挙って追悼特集を組み、交流のあった人々の追悼文が掲載されている。それらの中に、中河の名を見出すことはできない。生前及び没後の雑誌類などを可能な限り調査したが、中河が芋銭について何らかの一文を物したかというと、これも確認できない。
芋銭は生涯において、夥しい書簡を認めている。これらも調査してみたが、その中に中河の名を見つけることはできなかった。
このように、芋銭との交流もない、芋銭研究の実績もない、そういう人物の歌碑が、なぜ芋銭顕彰の地に建立されているのだろうか。
芋銭には心を許した友が二人いた。その一人は、福島市の医師で歌人の池田龍一、もう一人は、兵庫県丹波の地で酒造業を営む俳人の西山泊雲である。双方ともに芋銭の人と芸術に心酔し、競って芋銭の作品を収集したことでも知られる。芋銭は、美術評論家よりも高い見識を以て、自身の芸術の本質を理解してくれる二人に、絶大なる信頼を寄せていた。芋銭は、短歌・俳句を嗜んでいたので、折に触れて、池田龍一や西山泊雲に批評を乞うたりしている。池田は医師であることから、病弱の芋銭を気遣い、養生法など常に適切な助言をしていた。また一方の泊雲は、芋銭の次女を息子の嫁として迎え入れたり、娘を芋銭の三男に嫁がせたりと、縁戚関係を結び、更に緊密に芋銭との交流を続けた。
もし、あの公園の一角に、芋銭関係者の歌碑や句碑などを建立しようとした時、まずは、池田龍一・西山泊雲の名が挙げられて然るべきである。この二人を差し置いて、その他の歌人・俳人等の碑を建立しようとするときは、慎重を期して欲しいものだ。
当該碑建立時の新聞によれば、その除幕式は、1988年11月20日に挙行されたとある。この日は、芋銭にとって何らかの記念すべき日かといえば、そういうこともない。
1988年は、芋銭生誕120年にあたる。これを紀念して、牛久において同年2月(芋銭が生まれた月)に華やかに祝賀祭が展開された。91歳になる中河与一も、カッパ村長という立場で夫婦で招かれている(記念祭招待者名簿によると「特別招待者」として)。それから9ヶ月後の碑建立時には、祭はとうに過去のことになっていた。当然といえば当然だが、当時の新聞記事を読んでみても、120年という文字はどこにもない。よって、肝心の建立の意図も判然としない。
碑に彫られた歌「朝夕に芋銭したしみながめたる沼の向ふの富士美しき」について、牛久市観光協会のホームページによると、「芋銭の雲魚亭の朝な夕なの生活から、その心境を詠んだもの」との説明がある。中河与一は、芋銭研究をしていないのだから、「雲魚亭」での芋銭の日々がどういうものであったか、全く知らないはずだし、まして「その心境」など知る由もない。この歌のどこに「芋銭の心境」が詠み込まれているというのだろうか。
どう考えてみても、中河与一の歌碑を建てる事、それが第一の目的であったと言わざるをえない。
とにかく、誰が建碑の口火を切ったのか、そして、芋銭のための、または、中河与一のための建碑か、そのあたりの事情が全く分からない。このことを問えば、「芋銭顕彰のため」という、当たり前の答えが返ってくるだろう。ならば、なぜ「中河与一」でなければならなかったのかと追問すれば、多分返答に窮するだろう。
それでもう一度、どのような形にせよ、芋銭関連の文献中に中河の名があるか、再調査を試みた。その結果、次の二つの書籍に、中河の名を見出した。
1987年12月刊行(碑建立の前年)の、鈴木光男著『小川芋銭の世界』(教育書籍)に序を寄せ、併せて、同著書の題字も中河が手がけている。序と言ってもたかだか数行のものであり、芋銭の人と芸術の何たるかには触れられていない。その序にて、「最上の執筆者で、これ以上の適任者は何処を探しても無いと思ふ。・・・芋銭を知る上で、これ以上の著書は今後有り得ないと思ふ」とまで絶賛している。そのように素晴らしい書籍ならばと読んでみたが、「てにをは」という重箱の隅を突くような誤りではなく、もっと根本的な誤りが多数含まれているし、また、次の著書『芋銭子春歌秋冬』に繋がる諸問題(中には全く同じ問題)が、既に散見される。
問題山積の著書に、「これ以上の著書は今後有り得ないと思ふ」とまで絶賛しているのだから、中河は、「芋銭を知らないこと」を自ら暴露しているようなものだ。そして、続く次の著書の序によって、この事実を決定的なものにしている。
著名人に自分の書籍に序や題字を認めてもらうことは、著者にとって名誉なことかもしれないが、その行為が芋銭研究・顕彰に寄与することにはならない。中河与一は、またまた鈴木光男の著書『芋銭子春夏秋冬』(暁印書館 1990年)に序を寄せている。同書籍は、芋銭の句や和歌を纏めたものだが、近世の俳人の句(芭蕉、蕪村、一茶その他)を芋銭作とするという、考えられない誤りを筆頭に、ほぼ全ページにわたり誤りがあるという何とも表現しがたいものである。その序で中河は、「今度の新著は芋銭研究に重大な寄与を果たすものと云へる」と、手放しで絶賛している。芭蕉・蕪村らの句を芋銭作としている事に気付かずに絶賛しているのだから、歌人としての資質も問われかねないことになる。詳しくは、「芋銭子春夏秋冬の問題点」を参照されたい。
これ以後(以前もそうだが)、中河与一の名は、芋銭関連文献に登場することはない。
以上から、中河与一は、鈴木光男の著書の序を通してのみ、芋銭と繋がるということになるわけだ。
地元の牛久市観光協会のホームページにも、中河与一の碑が取り上げられているが、何の説明もない。付け加えれば、歌の読みが間違っている。以前に指摘のメールを送ったが、直す気もないらしい。また、「茨城百景・茨城観光百選・茨城の湧水 イバラキノート」のページでは、「小川芋銭と親交のあった小説家 中河与一 歌碑」と記されている。諄いようだが、中河は芋銭との交流はない。芋銭研究などもしていない。しかし、このように記されていると、いつの間にか、芋銭と親交があったと定着してしまうから恐ろしい。それは、ひとえに碑を建てたことに起因する。
地元の牛久市観光協会は、ホームページで中河与一の歌碑を取り上げているのだから、建碑に至った経緯を記し、正確な情報を発信して欲しい。でないと、更に尾鰭が付いて、ますます混迷の度は深まる。
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