芋銭の絶筆について
芋銭の絶筆「仙桃」 『河童の影法師』より
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絵画における芋銭の絶筆について考える。
先ず、芋銭が倒れたという昭和13年1月30日の動向をみてみる。
一月三十日 山妻眞子、先生を牛久に往訪、夕方辭去、中野風信子と牛久驛まで自動車に同乘、この日仙桃御揮毫了る先生の絶筆にして最後の傑作也。(『河童の影法師』芋銭先生と俳画堂(島田勇吉 昭和15年 俳画堂))
*「夕方辭去」とあることと、寒中という時節を併せて考えると、これ以後の訪客はないだろう。
客を帰した後風呂に入り、「自力で出ることができず、家人を呼んで出してもらった」と芋銭が後に語るように、この時に発病(脳溢血)、右半身に不自由を来たし、以後は床に臥す日々を余儀なくされた。
続いて、発病以後の芋銭について。
昭和13年2月13日 「河童百圖を携へ牛久に先生を見舞ふ、一切面會謝絶と云ふことで悄然として歸る。」(『河童の影法師』)
昭和13年5月1日発行『ちまき』の「ちまき俳人往来」に、「小川芋銭翁(牛久) 雲魚荘に御静養の翁は日ましに御気分よくよろこばしいことです。併し、面会は依然として謝絶」。
昭和13年7月1日発行『ちまき』の「俳人往来」に、「小川芋銭先生(牛久) 絶対面会謝絶のもとに只管御静養に御専念遊ばさる。一日も早く御快癒を記念申し上ぐる次第である。」
昭和13年7月17日 「案外顔の色艶宜し、但し身体細く疲瘠せりとの御話の也、先づ酒でも飲んで帰られよとの御勧め、病床の脇に陣取って二本許りいたゞき又の好機を約して拝辞し……」(『河童の影法師』)
昭和13年8月12日 「御病氣の方は如何に候や御手足多少相叶ひ申候哉」(同日付 芋銭宛西山泊雲書簡)
昭和13年9月23日 「先日承り申候先生には御氣先き益々御よろしく寝返り等出来申候由 何より何より御目出度奉候」(同日付 芋銭宛泊雲書簡)
昭和13年11月5日 同日付で斎藤隆三宛に書簡を送る。
*書簡に「発病以後初文字」とあるように、実質的絶筆となる。
昭和13年12月17日 逝去。
以上から、「米寿賀」の賛のある「仙桃」が、絵画における絶筆としてもよいだろう。当該作品は、現在茨城県近代美術館の蔵するところとなっている。
なお、同作品には次の由来記が付されている。
仙桃由来記
この仙桃は昭和十三年一月三十日山妻が先生を訪づれ、叔母土岐八重野女子の加米寿の為め御揮毫を懇願し終日に亘り熱筆せられたるもの也。同日午後八時頃不幸脳溢血にかかられ、竟に再起不能に了る実に御生涯中最期の貴重なる御遺作也。
昭和十四年師走 俳画堂 島田勇吉
*付記すれば、芋銭が発病した時刻が記されている点でも注目すべき由来記である。
実は、この絶筆と考えられる絵画作品について、随分昔の話になるが、美術雑誌『美術評論』(第2巻第13号 中興企画 1980年4月)に、「芋銭小考-絶筆・印章・書について-」という一文を寄せたことがあった。その時に掲げたのも勿論冒頭図版「仙桃」で、併せて「仙桃由来記」も紹介した。当時は、芋銭に興味を抱いて2年足らずであったから、知識も実績も無い者の駄文を、よく掲載してくれたものと感謝するのみであった。ただ、文中には訂正すべき個所が存在する。例えば、雲魚亭の新築期日。外に、「桃花源」(茨城県近代美術館蔵)の独自の文字解釈に関すること等々。今これを見ると、穴があらばの感で赤面の至りである。
これらについては、新資料がでてきたので、当HPで改めて訂正をしたいと考えている。
更に、上記発病後の芋銭について種々資料を当たっているうちに、『酒井三良』展図録(編集:喜多方市美術館他 2001年)に、三良が病中の芋銭を見舞ったという写真が掲載されているが、これは、撮影時期・場所は不明ながら、三良が見舞った時のものではないことも分かった。これについても、後日、当HPで紹介したいと考えている。
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