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『丹波と芋銭展図録』の問題点

 展覧会のタイトルにもなっている兵庫県丹波の地に、酒造業を経営する文化人・西山泊雲が居を構えていた。その居宅には、多くの画家・文人等が集い、文化の拠点として人に知られるところとなっていた。

 改めて記すまでもないが、泊雲は福島の池田龍一と共に、芋銭の最大の理解者であり後援者でもあった。両者共に芋銭の人と芸術に心酔し、競って芋銭作品を収集し、展覧会出品画などについて入手が叶わない時には、完成作品にほぼ近い下絵までをも収集の対象とした。 

 芋銭ゆかりの地・兵庫県丹波市の植野記念美術館において、「丹波と芋銭展」(2015年9年19日~11月8日)が開催された。展覧会監修及び作品解説は、大阪国際大学の村田隆志氏(図録に明記)である。氏は、展覧会会期中に講演もされている。同展には今まで世に出ることのなかった作品も出陳され、多くの芋銭ファンを楽しませてくれた。

 さて、本題の『丹波と芋銭展』図録ついて記すことにする。

 展覧会図録の刊行は、今回の場合、展覧会終了後になった。私も某氏のご厚意により手にすることができ、数日間豊かな気分に浸りながら読み耽った。出陳された作品は、図録中に図版として収録されているので、後の芋銭研究のため意義深い文献となっている。

 ただ問題なのは、同展監修者による作品解説である。南画及び文人画は、教養の絵画と言われる。芋銭芸術はその典型である。先ずは画賛等を正確に読み、それからその周辺を解明して、初めて芋銭芸術を説くことが可能になると思うが、この度の図録解説を読むと、そのあたりの杜撰さが際立つ。総数89頁の図録に、別頁の正誤表に示すとおりの多量の誤りがあったのでは、図録の体を成していないと評されても致し方ないだろう。したがって、そのまま鵜呑みにして引用したりすると、同じ轍を踏むことになる。

 いまそのうちの数例を挙げてみる。

 図録9頁に、泊雲が初めて芋銭に制作を依頼した作品について、「この作品が……「河童短冊」(出品番号29)と考えられる」と解説されている。この作品の印影は「莒飧」である。莒飡(飧)に関しては、芋銭自身が、「昭和3年から使用を開始した別号」と語っている。したがって、出品番号29の作品は、芋銭に最初に依頼(大正5年)したうちの一つとは決してならない。別の例として、図録の作品番号43では「子猶」を「子献」とし、加えて「丹陰雪暗し」を「丹陰雪晴れて」と、作品番号16では「相食噉」を「天空寂」と、作品番号28では「香風水席」を「興風水広」と、はたまた作品番号46-2では「酒星昭回」を「酒星眼回」と、それぞれ誤読し、作品とは完全に乖離した解説を展開している。引用などにあたっては慎重に慎重を・・・と言ってみても、具体例を示さないことには始まらないので、疑問に思えるところを、「正誤表」のような形にして記した次第である。

 執筆をされた方には、二度ほどこの図録について問題提起をさせていただき、お考えを長期間お待ちしたが、何の反応もない。誤解のないよう断っておくが、「正誤表」のようなものを記す真意は、ひたすら真実を追い求める気持ちから来るものであって、執筆者や関係各位に対して、ある種の特別な感情や雑念・他意など元より胸中には全くない。

 

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