『芋銭子春夏秋冬』の問題点

 芋銭は、本業の絵描きのほかに、俳句や短歌も嗜んでいた。若い頃は、絵描きとしてよりも、むしろ俳人としてその名が知られていた。その俳人芋銭に焦点を当てた文献が、 鈴木光夫著『芋銭子春夏秋冬』ー俳匠としての小川芋銭ー( 暁印書館 平成2年)である。収録された俳句は935句(数は整理番号で算出。次の短歌も同じ。)、短歌は119首に及ぶ。俳句短歌共に、制作年順に収録され、末尾には索引も付されている。表面上を見れば、芋銭の俳句についてこれほどの文献は、かつて刊行されたことがない。その意味で言えば、この文献の右に出るものはないと言えるだろう。

 中川与一氏もそう思ったのか巻頭の序にて、「類書のあることは勿論であるが、こんどの新著は、原典にあたってその全容を解明した労作。…今度の新著は芋銭研究に重大な寄与を果たすものと云へる。」と、絶賛している。芋銭関連文献であれば、内容の如何に関わらず総てを収集の対象としていたので、私も早々に購入し読み進めた。そのうち、この文献の「重大なる寄与」ではなく「重大なる問題」に気づいた。それにはさほどの時間はかからなかった。

 中川氏は、小説家・歌人として知られている。歌人であれば、俳句にも相応の見識を有していると見て不都合はないだろう。氏はこの文献に対し、「芋銭研究に重大な寄与を果たすもの」と手放しで絶賛しているのだから、当然、巻頭の賛辞は読後に認めたと考えられる。しかし、俳句に素養がある人なら、次の1、2に記すような初歩的な問題に直ちに気づくはずなのだが、何故か氏は看過している。例えば、「としくれぬかさきて草鞋はきながら」や「学問は尻からぬけるほたるかな」などは、縦んば作者を知らずとも膾炙された句であるから、記憶の片隅にはあったと思うのだが…。ともかくこのあたりをどう解してよいのか、首を捻らざるを得ない。

 

1 収録された句中に、芭蕉・蕪村・一茶等々著名な俳人たちの句が、どうしたことか芋銭作とされている。その數

 は約40句にのぼり、全体の4%にも及ぶ。これでは、俳匠としての芋銭像など到底描き出すことはできない。

  一例 

    11頁(解説頁)、69頁の96( 数字は『芋銭子春夏秋冬』に収録句の整理番号。以下同じ)の句

    憂きことになれて雪間の嫁菜かな

    これは、すて女の句であるが、著者は芋銭の作とし、「なかでも『直言』創刊号を飾った「憂きことに」の

   作品(下図)は特にすぐれている。…「憂きことに」の作品は、半裸で野に横たわる婦人の図。婦人はやや都

   会的な感じもするが、画賛句から見て、出征した夫の留守を守る若き農婦像である。憂きことに耐えてそれは

   馴れてきたが、ふと気づくとわびしさが込み上げてきて悶え、しばし雪の間の野に伏して嫁菜をつみ、思いを

   戦地に馳せるという図。たくみに描かれたわびしく悲しげな農婦の表情やその画賛句から、胸をさされるよう

   な心情が伝わってくる。」と解説している。

ここに描かれている絵画は、アルプスの画家・セガンティーニの作を底としている。遠方の山々もアルプスそのものである。参考までに上図とほぼ近い図柄のセガンティーニの作品「放蕩の罰(涅槃のプリマ)」を、ネット上(GATA|フリー絵画・版画素材集)から引き出してみた。

    これによって、描かれている女性は「やや都会的な」ではなく、少なくとも「西洋的」とすべだろう。

    もっとも、この「やや都会的な…」に関しては、平輪光三氏が、その著『小川芋銭さしえ名作選』(岩崎美術社 

   1969年)の解題9頁 において、「これに類したものに「憂きことに」の半裸の寝姿の婦人像があるが、これも都会

   的な美人である」と既に記しているから、これの受け売りとも考えられる。

    すて女の句の「雪間の嫁菜」なら、直ちにその映像を描け得るが、『芋銭子春夏秋冬』の著者が言う「雪の間の野」

   とは、どういう光景なのだろうか。また、添えられた句からは余りにも飛躍しすぎる「わびしさが込み上げてきて悶

   え、しばし雪の間の野に伏して嫁菜を摘み」とは、どういう動作だろうか。著者による絵と句の解釈から推測すると、

   「伏す」とは仰向けになることらしい。それにしても、「半裸で雪の間(?)の野に伏す」などとは、尋常の沙汰では

   ない。また、「伏して嫁菜を摘む」ことなどできるのだろうか。勿論俳句では、「嫁菜を摘む」などとは言っていな

   い。疑問は尽きない。

    この著者は、どういうことでも「日露戦争」そして「寡婦」に、むりやり結びつけてしまうが、これに固執せず熟慮

   されたら…と思う。

    以上、他人の絵画及び俳句を底(著者はこの事実を知らない)とした芋銭の作品から、「胸をさされるような心情」

   が、果たして伝わってくるのだろうか。

 

   12頁(解説頁)、93頁の195 の句

    わかれたる身をふみこみて田植かな

   これは蕪村の句であるのだが、著者は芋銭の作として、「日露戦争によって寡婦となった農婦に同情を寄せる句のよ

   うである。…さびしさを克服するためにけなげにも身をふみこみて田植えに精をす、… 芋銭の愛が注がれている句と

   いえよう。」と解説している。

    蕪村句集には、「 離別れたる身を踏み込んで田植かな」とあり、「離別れたる」は「さられたる」と読み、その意

   味は「離縁された」と解説されている。「離縁の喪失感にある女性は、周囲の好奇の目にも晒されている。 押さえき

   れない感情に堪えながら、田にぐっと踏み込んで苗を植える女の憐れさを詠んだ句」との解釈がなされている。

    つまりこの女性は、「離縁された」のであって「寡婦」になったわけではない。著者は、「日露戦争」「寡婦」とい

   う言葉に固執し、この場合でも「わかれたる」を、「日露戦争によって寡婦になった」に直結するから妙なことにな

   る。一歩踏み留まれば、このようなことは回避できたはずである。

 

2 収録したものが、俳句なのか短歌なのか、はたまた散文の如きものなのか見分けができていない。

  一例

   388の句 栗の花觀音道夢にも似たる今忘れ得ず

    まず奇異に思うことは、4つの語句がブツブツと切れていることと、俳句の定型から8文字も逸脱しているというこ

   とである。著者は収録に際し、この次点で「まてよ」と思わなかったのだろうか。この句は「勿忘草」によったと記さ

   れている。「勿忘草」は遺稿の所在が不明だから、収録にあたっては『芋銭子文翰全集』上(中央公論社 昭和14年)

   か、『朝日評論』第4巻第8号(昭和24年8月)のいずれかによる以外手立てはない(実はこの二者間ではかなりの相違

   があるのだが)。著者は『芋銭子文翰全集』と記しているので、いまそれを参照すると、 「栗の花、觀音道、夢にも

   似たる、今忘れ得ず」と、それぞれの語句の後に読点が認められる。これでは俳句にはなり得ないだろう。もっとも、

   何でもありの自由律俳句というものもあるから、こじつければこれにむりやり押し込めることも可能ではあるが…。

    自由律俳句といえば、即座に「山頭火」を思い浮かべる。その代表的な作に「鴉啼いてわたしも一人」がある。  

   「鴉」が「啼く」のは当たり前だし、その負のイメージから「一人」という語は 、詩人でなくとも 誰でも連想し得

   る。従って、発想からして極めて凡庸であると思う。 この句の評価は、著名人の作であろうがなかろうが、普遍的で

   なければならない。しかし、「山頭火」の名を除いたとき、果たして評価はどうなっていただろうか。

    ここで私見を述べれば、私は自由律俳句が嫌いだ。 こういった類いの良さがどこにあるのか、全く理解できない。

   いまネット上にも自由律俳句が溢れている。目を覆わんばかりの「独りよがりの駄句」があまりにも多すぎる。駄句を

   詠んでしたり顔している人たちを想像すると、滑稽ささえ覚える。定型の束縛から脱して新たな可能性を求めるという

   なら、「俳句」という言葉に拘泥する必要はない。この二文字に必死にしがみつくこと自体、自由律俳句の脆さを象徴

   しているように思えてならない。

    さて、この自由律俳句についてだが、芋銭の作として次のようなものがあげられる。

    880の句 畳の上に西瓜が一つ轉がっている

    854の句 木の芽の雨の地蔵院の鐘がなる 『芋銭子春夏秋冬』では、「雨の」が脱落、また「地蔵院の」を「地蔵

     院に」としている。「の」と「に」では、全く情景が異なる。

   例として挙げた以上の二つの句だが、私は駄作だと思っている。

   『芋銭子春夏秋冬』には、「俳匠としての小川芋銭」という副題が付されている。にもかかわらず、句を作る場合の

   術的な面・作風の変遷などについては何一つ触れていない。これでは「俳匠芋銭」のお題目を掲げることはできない。

    171の句 行春や薩摩守が草枕

    172の句 曉風夢を吹く毛蟲の巢

    以上は、「行春や薩摩守が草枕 花は語らず宿の主 地は熱す短冊の紅 曉風夢を吹く毛虫の巢 旅籠の戀よ 明星

   がちらり」(『草汁漫画』中の一文)から抜き出したもの。したがって、俳句とはなり得ない。

    640の句 紅き萼のみ殘る枝に殘梅數点白し

    641の句 雨絲の如く豆畝にそゝぎて寒し

    前記『朝日評論』によれば、この二句は、「 紅き萼のみ殘る枝に殘梅數点白し 、 雨絲の如く豆畝そゝぎて寒し 」

   と、一つの断片的な文章として記され、これに続けて、583の句「豆苗にほそき蔓のび雨の春」が記されている。二つ

   の句らしきものは、583の句の前書きの如きものと解される。

    621の句 石にしむ音(*)の秋と時雨けり *『芋銭子文翰全集』及び『芋銭子春夏秋冬』では「聲」

     庭前時雨

    629の句 一八と緑と石と彼菊と

    前記『朝日評論』によると、「庭前時雨」と前置きし、「一八の緑と石と枯菊と石にしむ音(*)の秋と時雨けり」

   と記されている。となれば、これは俳句ではなく、短歌として扱わなければならない。『芋銭子春夏秋冬』によれば、

   「庭前時雨」と前置きした629の句には、「庭前」の光景のみで「時雨」が詠み込まれていないから、『朝日評論』の

   記述を採らざるを得ないことになる。

    なお、621の句の「聲」「音」の相違については、いずれが正しいのか直ちに結論は出せない。いずれ遺稿が出てく

   ることもあるだろうから、それを待つこととしたい。

        

3 2次資料と同じ誤りを犯しているところから推測して、原典にあたっているというのは疑わしい。

  一例

   福島県立美術館の紀要に、二階堂充著「福島と芋銭」という論文が掲載されている。この論文には、次の誤りがある。

   荷のはしに縛り附たる干鱈哉

    これは「牛伴」の句であるが、芋銭の作として収録。そして、肝心の芋銭の句「船便を蝦夷から貰ふ干鱈哉」が脱落

   している。

    『芋銭子春夏秋冬』の48頁に収録の19の句は、これと全く同じ過ちをしている。そして、「船便の」の句を採りこ

   ぼしている。原典に当たったというなら、先行する二階堂氏の論と、同じ誤り・同じ脱落は起こり得ない。つまり、原

   典には当たってないことがこれによって証明される。

 

4 原典にはないルビが付されているが、その方法が杜撰である。著者が読めるものにはルビを付し、読めないものには付さ

 ない。また、付されたルビが、著しく適正を欠いている。

  一例

   15頁及び268

    誤 秋の燈(とう)に梨子買ふゆなもさびしかり

    正 秋の燈(ひ)に……

   107頁 253

    誤 人を白眼(しらめ)めば鰒(あわび)になるとよアー恐わや

    正    人を白眼(にら)めば鰒(ふぐ又はふく)に……

      この句は、蕪村の「河豚の面世上の人を白眼むかな」を意識して詠まれた。

      これを承知していれば、上記のようなルビが付されることはない。

 

5 収録する句を転載する時の不用意な誤り(ルビまでふる)が、枚挙に暇が無いほど存在する。

  一例

   46頁 14

    誤 櫓田(やぐらだ)の翠(みどり)を踏(ルビ無し)て小春凪(なぎ)

    正 穭田(ひつじだ)の……

      「穭田」は、秋の季語。稲刈り後、刈株から青芽が伸びた田のこと。「櫓田」では、翠は踏めない。また、「や

      ぐらだ」とルビを付すのも要らざること。

 

以上、数例を挙げたが、正誤表に詳細を記したので、この文献を参照される方々は一読していただきたい。

 

 というのは、数年前、某氏から「芋銭の伝記のようなものを纏めたい」というので協力を求められた。了承をすると、ほど

なく荒原稿が次々と送られてきた。それらを見て、「やはり」と溜息をついたことを思い出す。どういうことかと言えば、

『芋銭子春夏秋冬』を参照し、同じ轍を踏んでいるのである。一旦活字になると恐ろしいもので、誰もが信じて疑わない。

 こういうことが予見されたから、何らかの方法でこの文献の実情を世に知らしめ、注意を促したいと、かなり以前から考え

ていた。 間違いは間違いとして正さなければならない。 先ずは、著者の責務として正誤表をと進言したが、反応はない。俳

句は、43~286頁にわたって収録されているが、そのうち、訂正すべき箇所がないのは、僅かに約60頁のみという杜撰な文献

である。 著者はあてにならないので、芋銭を愛する者として見て見ぬふりはできず、誤りを正すため実行に移した。

 しかし、周囲の反応は、私が望む方向とは全く逆の方向へと転じていった。

 『茨城県近代館研究紀要3』1994年刊 に、「小川芋銭の『草汁漫画』について」と題する小論に、附則のような形で『芋

銭子春夏秋冬』にも触れ、正誤表のようなものを書いたことがあった。 また、『新いはらき新聞』(現在廃刊)へ、「芋銭

子春夏秋冬を読んで」という一文を寄稿したこともあった。 ところがそれ以後、何故か想像を絶するバッシングやパワーハ

ラスメントに見舞われるところとなった。小論は、権力によって抹殺され、ネットからも葬り去られた。加えて、職場内で論

文を書くことさえも不自由を来すことになった。

 それから幾星霜を重ねたある日、同館副館長及び管理課長が私の所へ訪れ 、「当該論文を書き直せ(驚いたことに、小論

を読みもせず、訂正箇所さえも示さず)」と詰め寄った。勿論、そのような不条理な圧力には屈しなかった。それから暫くし

て、同館のHP上に、どういう訳かは分からないが、小論のタイトルが掲載(私にとっては、どうでもよいこと)されるよう

になった。

 話は一寸横道にそれたが、ここで再び取り上げると、あの忌まわしき事が再燃するかも知れない。

 しかし、それを懼れていたのでは、真実を伝えることはできない。歪んだ情報からは何も生まれない。

 

 

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