続:幼名・不動太郎について

 芋銭は自身の幼名命名について、その経緯を、雑誌『大法輪』4-1(大法輪閣 昭和12年1月)に、「生れた昔」という一文に記した、とこのホームページ「幼名不動太郎について」で紹介した。また、今までの芋銭文献では、子を授かるため不動尊に願をかけたとのみあるだけで、不動尊の具体的な所在場所を示す記述はいずれの文献にも見当たらず、芋銭の「生れた昔」によって初めて「愛宕下の不動尊」ということが分かったとも記した。その芋銭の回顧文を、重複して恐縮だが再掲しておきたい。

 生れた昔   芋銭子

明治元年、正しくハ慶應四年二月十八日、江戸赤坂溜池の一角に生れた。両親が愛宕下の不動尊に祈願して生まれた所から名を不動太郎と付けられた。名は大變強さうだが、至極小さな弱々しい赤ん坊であったと云ふ。或時大叔母が遠緣に當り當時幕府の典醫で小兒科では神醫呼ばれた人に伴れていつて診て貰つた□其醫者が□ふ。此兒が三つまで育てば煎豆に花だと。爾来煎豆の花も幾春を重ねてことし六十九年の命。夢の浮世を思へば恍惚として不思議を感ずるのみである。……

 「愛宕下の不動尊」という記述を基に、先ずは手がかりを得るため、ネット上にある各寺社(愛宕下はもとより芝区内)の縁起を探ってみた。そして、最終的に残ったのが「鏡寺院」である。その縁起には、「元和元年(1615)愛宕下の地を拝領して開山したといい、明治22年高尾山飯綱不動明王を勧請したといいます。」とある。また、『芝區誌』よりとして、「鏡照院 愛宕町一丁目十二番地 新義真言宗智山派、開山は不詳である。其本尊は身代不動明王で…」と記されている。

芋銭が生まれたのが明治元年で、縁起にある「明治22年高尾山飯綱不動明王を勧請した」とでは、年代が合わない。これと並行して、手持ちの3種ほどの江戸期の古絵図(地図)などを調べてみたが、「鏡照院」の3文字を見つけることができない。

 それで、調査の目的や過程などを記し、港区立港郷土資料館にお尋ねをし、次のようなご回答をいただいた。

江戸幕府編纂の『御府内備考続編』(御府内寺社備考)中に「鏡照院 開基不知 本堂 四間 ニ五間 本尊身代不動尊 丈八寸応永年中上総国海上郡の海中より出現之由申伝」、「明和五年(1768)、鏡照院の本尊である身代不動尊の開帳が行われました。」また、『鏡照院玉泉寺史』(平成3年刊 非売品)には「本尊不動明王は弘法大師の御作と称せられその御威徳広大にして降魔病難の災厄を祓い普く衆生の身代りに立たせ給う因って世人の信仰篤く…」とあることや、これらから「明治26年に高尾山飯縄不動明王を合祀していますが、江戸時代より不動尊として広く知られた寺社であったことがうかがえます。」

 更に、その所在地に関して、「江戸時代には愛宕山の麓、現在の新橋愛宕山東急REIホテル(港区愛宕1-6-6)辺り」との御教示もいただいた。鏡照院は、その後、港区西新橋3-14-3に移転しているが、その御朱印には、「芝・愛宕山下 鏡照院」とある。

 以上の情報を基に、図書館にて多くの江戸絵図等(復刻本を含め)を調査したところ、何種類かの絵地図中に「鏡照院」を見つけることができた。ただ、地図によって「鏡照院」の場所や大きさが異なっているが、取り立てていうほどの差でもないので、その中の一つの絵図を以下に示しておく。色を別にして示したが、芋銭が生まれた所(水色)と「鏡照院」(赤色)との位置関係を見ると、さほど遠くないことも初めて分かった。

 以上にて、芋銭の伝記に新たな事実を加えることができた。

 この調査にあたり、港区立港郷土資料館の方々には大変御世話になりました。記して御礼を申し上げます。

願をかけた鏡照院の場所(赤表示)

子宝に恵まれず願を掛けた不動尊「鏡照院」(赤色表示)と、芋銭が生まれた所(水色表示)の位置関係、図左上は溜池。

地図をクリックすると、大きな画面になります。モバイルでご覧のときは、もう一度クリックすると文が消えます。

増補改正 芝口南 西久保 愛宕下之圖 古板江戸図集成第四巻 中央公論美術出版 平成14年より

 

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