続・芋銭先生記念碑

「河童の碑」について​

河童の碑 部分 「誰識古人畫龍心」

河童の碑(部分)

碑は、牛久小川家所蔵

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 碑の表には、「誰識古人畫龍心」という文字が彫られている。

 お膝元の牛久市観光協会のHPによると、「正面右側には『誰識古人画龍心(だれかしるこじんがりゅうしん)』の文字が刻まれています。これは、何故河童を描くのかとの問いかけに芋銭が答えた言葉です。」と記されている。

 これだけ断定的に書かれているのだから、何らかの典拠があるだろうと、かつて『小川芋銭文献目録』を出版したときに収集した資料や、増補版を目論みその後に収集した資料もあたってみたが、そのような記述にたどり着くことはできなかった。

 ネット上には、同協会のHP発信情報を基とするものが多々認められる。実情はどうあれ「芋銭が答えた言葉です」と繰り返されると、いつの間にか定着してしまう。裏付けとなる資料にもよらない適当な情報発信は控えるべきだろう。

 芋銭の代表作の一つに「水魅戯(すいみたわむる)」という作品がある。大正12年の院展出品作(同年の院展は9月1日が初日だが、当該作品は、改めて同年12月に開催された院展に出品)であることから、ある評論家が「関東大震災を予兆したもの」という不用意な論を発するや、孫引き曽孫引き評論家がこれに追随、果ては、「芋銭がこのような絵を描くから震災がおこるのだ」とまで記されるようになった。話としては面白いが、芋銭にとっては迷惑なことだろう。当該作品右下の制作時期を示す「癸亥朧月(大正12年12月)」を見れば、このような論評が生まれることはなかった筈である。

 前記の「芋銭が答えた言葉です」というのも、この類いだろうと思っている。では、いつ頃から言われるようになったのかというと、これまた判然としない。おそらく、同協会HPがその先鞭をつけたのだろうと思う。

 建碑及び除幕式については、当時の地元紙でも大きく紙面を割いて報じられている。しかし、彫り込まれた文字については一切触れられていない。

 碑表のカッパ絵と文字は、当芋銭研究ページの「河童の碑について」に記したように、肉筆画ではなく複製画(色紙)を基としている。この作品が話題になるのは建碑から暫く後のことであって、それ以前に注目されることは、一度たりともなかった。ところが、建碑以後、肉筆つまり原画と称されるものが、近年、あちらこちらから出てくるのはどうしたことだろう。

 このような現況であるから、何としても碑表の文字について明らかにしたく、随分前になるが、碑建設に実質的に関わった吉井忠氏に、お手紙にてお尋ねをしたことがあった。早々に御返事をいただいたが、それには触れられてはなかった。

 推測するに、たまたま選定した「河童の碑」に彫り込む複製画の画賛に、「誰識古人畫龍心」が書き込まれていただけのことであって、「芋銭が答えた言葉です」というのは、後の誰かの無責任な作り話だと思う。

 こういった不確実な記述の例は、近年刊行の『伝記』にも見受けられる。例えば、子ども向けの「牛久むかしばなし『小川芋銭』牛久市立中央図書館 2000年」もその一つで、冒頭に「伝記」と記されているにもかかわらず、その場に居合わせたかのような作り話が、まことしやかに綴られている。この書籍には英訳も付されており、その面では画期的といえるが、肝心の雅号の基となった芋銭の「芋」を「potatoes」としたり、芋銭が度々長逗留した銚子の「海鹿島(地名、島ではない)」を「ashikajima island」としたり……、また俳句の英訳(俳句の心の英訳はとても難しい)が極めて不適切であったりと、多くの箇所に問題が認められる。この本は、学校教育の副読本にも用いられることがあると聞いている。刊行した図書館に問題点を手紙にて指摘したが、今になっても放置されたままである。もちろん、何らの回答もない。

 更に愁えるのは、次の如き完全なる誤りを記すブログが複数みられるということである。ただし、これは当該ブログの非ではなく、偏に情報発信元の牛久市観光協会の責に帰する。次に問題のブログ記述の部分を抜き出してみる。

 「この河童の姿は小川芋銭が描いた河童をもとに彫られているとずっと思い込んでいたが、今回牛久市観光協会のホームページを参照したところ、そうではなかった。……碑の正面やや左側には河童の絵が描かれています。……これは、現二科展会員、中村直人氏が監修し、八柳恭次氏が描いたものです。……(出展:牛久市観光協会ホームページ)」

 八柳恭次は複製画をそのまま彫刻しただけで、河童の絵など描いていない。勿論、中村直人も同様である。

 これを含め、牛久市観光協会へは、芋銭に関する多数の誤りを指摘させていただいたが、訂正する意思すらない。

 「河童の碑」は、牛久市の文化財に指定されている。その地元からあり得ない情報を発信するとは、罪深いことである。

 このように「河童の碑」は、今になっても新たな無責任な問題が作り出され、混迷の度は深まるばかりである。端的にいえば、牛久市は、「芋銭研究顕彰はしない」というのだから、間違いであろうがなかろうが、どうでも良いのだろう。

 

 残る課題は、「誰識古人畫龍心」についてだが、解釈がなされるようになったのは、これまたつい最近のことである。おそらく、『小川芋銭ー聞き歩き逸話集ー』1983年刊 中の、住井すゑの「情けある芋銭夫妻」がその先鞭をつけたものと思う。その解釈たるや、宇宙・太陽系にまで話が及び余りにも壮大過ぎ、只々「へーー」と思うばかりで、どうにも納得できない。

住井すゑは「古人」を単なる「昔の人」と解釈しているが、これには無理がある。芋銭の作品を語る場合は、芋銭の言葉を基とすべきであると思うので、種々資料を漁り考えが纏まり次第このHPに記してみたい。

 

​ なお、この碑については、「住井すゑの芋銭論 その3」も併せてご一読いただきたい。

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