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住井すゑの芋銭論 その4

 「住井すゑの芋銭論」は、そのほとんどが作り話や、事実に反することばかりなので、後々のためそれらの矛盾点や事実に反することを、「住井すゑの芋銭論 その1〜その3」までに記しておいた。これらを書き終えた後、芋銭文献を何度か見直していたところ、更に正しておかなければならないものを見出したので、ここに記しておきたい。

 『小川芋銭ー聞き歩き逸話集ー』牛久町立図書館 1983年 という芋銭関連文献が刊行されている。住井はその中で「その後、わたしたちが牛久に帰ってからは、しょっちゅう私の家に遊びに見えました。急ぎの郵便や書留などの差し出しをたのまれて局に行ったものです。・・・美術院へ出す絵なども何度もたのまれて、局へ出しに行きました。」(同文献49頁)と語っている。​

 ここで芋銭と住井すゑの動向を記して見る。

 芋銭の動向:昭和10年  9月12日、長逗留していた銚子の海鹿島から牛久へ戻る。この年の院展へは出品せず。

             9月20日、この頃上京、23日牛久に戻る。

             9月25日、同日付け池田隆一宛書簡で、家にあれば俗客多くどこかへ移りたいと漏らす。

             9月30日、同日付け斎藤龍三宛書簡で、相変わらず病懶のうちに過ごしていると伝える。

       昭和10年10月  2日、同日付け俳画堂宛書簡で、上京し夜8時牛久に戻ると知らせる。

           10月17日 同日付け津川公治宛書簡で、1週間ほど東京に滞在していたと伝える。

           10月23日、長女の嫁ぎ先文村横須賀(現在の北相馬郡利根町)へ移り、以後、約2年間滞留。

       昭和11年  2月  9日、改組帝国美術院展への出品作を、次女桑子に託し届ける。

                この年の院展出品作は、文村から届ける。

       昭和12年  9月19日、文村横須賀から牛久に戻る。最後の院展出品作は、文村から届け済み。

           10月  4日、大宮伍三郎宛書簡で、個展出品作完成は未だ半数にも及ばず、会期の延期を願う。

                                 10月  5日、川村柳月らの来訪を受け、雨中牛久沼に遊ぶ。

           10月29日、宮崎仁十郎宛書簡で、個展出品制作に没頭するため、古稀祝賀会の延期を願う。

           11月24日、個展のため上京。

           11月25日、この日から27日まで、東京にて個展「古稀記念新作画展」を開催。

           12月  1日、同日付酒井三良宛書簡で、古稀祝賀会のため色紙を百枚以上制作となり後悔する。

           12月  7日、俳画堂牛久に来訪、1泊の後帰京。

​           12月22日、取手の長禅寺にて、芋銭の古稀記念祝賀会が開催。長男出征準備で時間を短縮。

           12月24日、土浦市荒川沖の鶴町邸千手観音開眼式に参席。

           12月25日、長男出征。

       昭和13年  1月30日、病に倒れる。以後、再起を願い療養に専念するも叶わず、同年12月逝去。

​ 住井の動向:昭和10年        東京から 芋銭居の近くへ移住。

 まず、「美術院へ出す絵なども何度もたのまれて、局へ出しに行きました。」についてだが、日本美術院展は、凡そ9月の初日開会を常とする。上記の動向により一目瞭然だが、住井すゑが、美術院出品作を頼まれて何度も局へ出しに行くことなど、全くあり得ない。

 次に、銚子の海鹿島から牛久に戻り、落ち着く間も無く長女の嫁ぎ先へ移るまで、つまり、牛久に留まっていた期間は僅か1ヶ月程である。上記の動向に示したように、その間、上京・俗客の来訪・病等々で自身のための時間すら持つ余裕もなかった。住井すゑが言う「しょっちゅう私の家に遊びに見えました。急ぎの郵便や書留などの差し出しをたのまれて局に行ったものです。」は、あり得ない話だと考えるのが普通だろう。

 また、昭和12年9月19日に牛久に戻った後、個展出品作制作・河童百図刊行準備・2箇所での古稀祝賀会の謝礼作制作・長男の出征等々、芋銭は多忙を極めた。しょっちゅう住井宅へ遊びに行く時間的余裕などあるはずもない。

 にも関わらず、このような(「住井すゑの芋銭論  1〜3」にも記した)あり得ないことを、平然と並べ立てる「住井すゑ」とは、実に憐れな人だとつくづく思う。

 芋銭にとって「住井すゑ」という人物は、意識の対象外であったと思う。あれだけ夥しい書簡を記しながら、住井宛の書簡は未だ1通たりたも見たことがないし、犬田卯宛の芋銭書簡中に、住井に触れたのはわずか数文字のみである。

 くどいようだが、事実に反することは削ぎ落とされてしかるべきである。こういう類を野放しにしていると、後々混乱を招くことは必定である。そのため、ここに記した次第である。

 ちなみに、芋銭の居宅を兼ねた画室の名称「雲魚亭」を、頑として「魚雲亭」だと譲らなかったのも住井すゑであった。

 ごく最近、住井旧居庭の中心に、どういう事情か、土浦(元産婦人科病院)から移設された芋銭筆の二つの石碑がある。全く何一つ関係ない場所に、どういう理由の下に設置されたのだろうか。歴史を曲げることは止めて欲しい。

 こういう石碑が住井旧居に設置されると、やがては誤りだらけの住井の芋銭論が現実味を帯びてくる。

    住井すゑの芋銭論 その1     住井すゑの芋銭論 その2     住井すゑの芋銭論 その3

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